1
降り注ぐ強い陽射しがとても痛かった。
眩しく、心の奥底にも直接的に響くような、そんな感じ。
暖かさを通り越した熱さがそれこそ刃物のように肌に突き刺さる。
じりじりと焼けていくのを感じながら、歩き続けていた足を止めて額から頬に流れてきた汗を手で拭った。
夏だからってこれは反則だと思う。あまりにも良すぎるくらいの天気だった。
曇り空くらいがちょうど良かったから、明るすぎる視界が息苦しく感じてしまう。
目を細めつつ上を見ると、真っ青な空。雲は白く小さく浮かんでいるものがいくつかあるくらい。
目線を元に戻すと、すぐそばには今自分がいる道を挟んで左右に草原が広がっている。
そしてそこからまっすぐ正面には大きな海が見える。
空よりももっと深い青。そして、草花よりももっと深い緑。
ゆらゆら揺らめいて、その色は見るたびにいつも変わっているように感じる。
それでも、この景色は懐かしいものだった。
小さな頃から海を見て育ってきた。
いつも近くにあって、何をするのにも目に入っていた。
「帰ってくるのは……7年ぶりかぁ」
思わず声が出る。しばらく歩き続けていたためか喉が渇いていたらしく軽く掠れた声。
背負っているリュックから水の入っている水筒を取り出し、開けて飲む。
一息休憩をしてから、再び歩き出した。
まっすぐ前を見つめて。前に広がる海を見つめて。
俺は、懐かしい故郷へ……海の見えるこの村へ、帰ってきたんだ。
歩き続けていると、海もこちらの方へ徐々に近づいてくる。
近づくごとにその景色が更に鮮やかに、はっきりと写ってくる。
海沿いの砂浜で遊んでいる子供が数人いた。まだ年齢は2桁にも行っていないと思う。
俺もこのくらいの年齢の時は毎日海で泳いだり、海岸沿いを気のすむまで歩いて探検したりと様々な方法で遊んでいたから、なんだか懐かしい。
砂浜へ足を踏み入れると、一番近いところにいた子供が俺に気がつき近づいてくる。
周りの子供もそれによって俺に気づき、走ってきていた。
「やあ」
俺は背負っているリュックを置き、右手を軽く上げて答える。
この村には旅人がよく訪れる。漁業がさかんな村のため、よく山から交易にやってくるのだ。そのため子供達も気軽に旅人に話しかけるようになっているのだろう。自分もそうだったなぁ。
「こんにちは!」
一番早く辿り着いた子供が笑顔で挨拶をしてくれる。
腰よりも少し高いところにあるその頭を軽くなでた。
そうしているうちに他の子供も集まってきた。全部で4人。男の子が3人で女の子が1人だ。
「旅人さん、この村へはどんな用事?」
一番日に焼けて真っ黒な男の子が聞いてくる。やっぱり7年ぶりに帰ってくる自分のことはわからないか。
「あぁ。俺はもともとここが故郷でね。帰ってきたんだ」
その俺の言葉に子供達は顔を見合わせる。
「そうしたら、お兄ちゃんもここで遊んでたりしたの?」
女の子が続けて聞いてくる。やはり女の子の方が成長が早いためか、この4人の中で一番背が高かった。
「あぁ。ちょうどみんなくらいの時は毎日遊んだね。色々なことをしたよ」
もうすぐ24になる俺は、13歳で村を出る前はずっと毎日遊んでいた。そう考えるとずいぶん時が経ったものだと感じた。
「そうしたら、いろんなことを知ってるんだね! これからここにいるんだったら色々教えてもらわなくちゃね!」
背は小さいが、一番活発そうな男の子が目を輝かせて俺を見る。
俺も昔は村のお兄ちゃんお姉ちゃんに探検場所などを色々と教えてもらったりしたなぁ。
「あぁ。俺でよければなんでも教えるよ」
「やったぁ!」
子供達は感情の表し方もストレートで、見ている側も心地よく感じる。
両手を挙げてばんざいをしている子。隣の子と手を取り合って飛び跳ねている子達。
俺の下へ一番最初に来た子も俺の手を取ってぶんぶん振り回していた。
今日は朝早くから街を出てきたために、村に着いた時間は昼を少し過ぎたくらいだった。
「今はまだ時間も余裕があるし……。それじゃ早速俺が昔行っていた探検コースでも回ってみるか!」
「やったぁ〜〜!!」
散々喜んで叫んだ後、2人は俺の手をそれぞれ取って足早に歩き出そうとした。
「ちょ……ちょっと待てって」
危ないって! そう言おうとした瞬間、その急な動きについていけずに足がもつれて転んでしまった。
「こら〜〜」
きつくならない程度に軽く睨むとその2人は「わー。ごめんなさいー」などと言いつつ下から俺の顔を覗き込んだ。
膝立ちになった俺とちょうど視界が同じくらいだった。
「ま、このくらいじゃなんともないさ」
俺は立ち上がって青い皮パンツについた砂を軽くほろった。ついたのは膝から下部分だけだったためその上の白いTシャツには影響はない。
後ろからは俺のリュックを持って残りの2人がちょうど着いたところだった。
「ごめんなさい。ちょっと嬉しくて走っちゃったみたいね」
リュック隊の女の子も俺に謝ってくれる。この4人の中では一番しっかりしているらしかった。
「いや。いいよ。俺も昔はあんなだったし」
そう言って辺りで駆け回っている元気な2人の子供達を見た。
ふと視界を横にずらして広がっている海を眺める。
近づいてみると海草の色だろうか。いつもよりも緑色に見える。
押しては返す波の音。聞いていると心が落ち着いてくるその響き。
俺にとっては最も身近な海。
だけど、俺にとってはもう1つ。忘れられない海があった。
ここへ戻ってくる前に、俺がいた場所。
青くもなく、緑でもなく、そして波が生じるわけでもなく。
それでも、ここの海と同じように、俺はその海がとても好きだった……。
2
底まで見えそうなくらいの透明な水。
どこからも湧き出ていたり流れてきたりしていないのに、なぜか増えも減りもしない不可思議な水。
いつも俺はこれを見ているけど、水かさが変わっているのを見たことがない。
普通なら蒸発したり降り注がれたりして循環しているはずだ。
しかしここには屋根があるため雨によって増えることもない。
この水には、説明できない数々の謎があった。
そこに入って軽やかに泳いでいる1人の少女がいる。
水に入っても透けない生地の白ワンピースを着て、目をつぶり、水の中で浮いたり沈んだり、進んだり戻ったり。
少女はこうしてもう3時間も泳ぎ続けている。
通常であれば思いっきり身体に負荷のかかる運動だが、この少女からはそのような様子は感じられない。
更に不可解なことに、この少女は息継ぎをしなくともずっと水の中に入っていられるのだ。
この水は「黙思の海」と呼ばれている。
毎月1回、選ばれた巫女がこの海に入って身を清め、1つの予言を行う。
人々はそれによって今自分が何をするべきか判断をするのだ。
海に入ってされた予言は今まで外れたことがなく、人々からの信頼性も非常に厚くなっていた。
伝達者は国で、そのため黙思の海に合わせて神殿が作られ、王国の騎士が巫女の護衛をし、女中が主な世話を担当する。
巫女に選ばれた者は、出身がどこであろうとも完全に身分の保証がなされる。
それだけ巫女になるということは重大なことらしい。
なりたくてもなれるものではなく、全て、素質がものを言う。
巫女になることのできる条件。それは黙思の海に1時間以上入っていられること。もちろん、息継ぎはなし。
海が受け入れる人物でないと、巫女にはふさわしくないと判断される。
ちなみに「巫女」と呼ばれているのは、今まで未婚の女性しか海に選ばれたことがないから。正式には違う呼び方があるらしいけど、俺が生まれた頃からはもう既にそう呼ばれていた。
新たな巫女が決定される時。それは先代の巫女が亡くなって空席になった時のみ。
そのため、病気等になって海に入ることができなくなった時に国中をあげて海に入る審査が行われる。
そして、今この水で泳いでいる少女が、現在神殿で予言を行う巫女なのだった。
巫女となれる資質を持った者と見出されたのは3歳の時。そして先代の巫女が亡くなった7歳の時から7年間、ここで過ごしている。
俺はそばで泳いでいる様子をただ見つめるのみ。
海に入っている少女を見ていても何が行われているのか全くわからない。
……何を考えて泳ぎ続けているんだろうなぁ。
ただ、岸にいるために水面に浮いている時にしか見ることができないが、その表情はとても晴れやかで、のびのびしているという印象があった。
周りからの喧騒もなく、ただ静かに泳ぐ少女。
微笑ましく、だが神々しく。見ていると様々な思いが胸の中で漂う。
再び水面に浮かんできた少女が、仰向けになり目を開けた。これが海での瞑想時間が終わった合図。
俺は海のある部屋から外へ出て、伝達者にその旨を伝える。
海で泳いでいる時は、予言に集中したいという希望で俺しか部屋に入ることを許されていなかった。
部屋に戻ってきた時、もう既に巫女は海から上がっており、肩まで伸びている髪の毛やワンピースから水が滴り落ちていた。
俺は壁にかけてあったタオルを手に取り、こげ茶色の髪の上にかける。
「シンク。ペンと用紙を」
はきはきとした、それでいて可愛らしい声で俺に話しかける少女。本来の海の色のような、青と緑が混じった色の瞳がこちらを見ている。
「了解」
巫女はいつも予言を紙に書いて伝達者に渡している。
口で伝えると記録に残らない分誤ったことが伝わったり誤解が生じるかもしれないと考えられるから。
俺は部屋の隅に置かれている机からペンと用紙を取って持って行った。
「ありがとう」
一言礼を言ってからすぐに文章にする作業が始まる。
頭の中に思い浮かんだことが大量にあるため忘れないようにするからなのか、ペンを動かす手はとても早い。真剣な様子でペンを走らせる。
「できました。こちらを渡して下さい」
1つ軽く息をつき、俺に予言の書かれた用紙が手渡される。急いで書かれたはずなのに、いつもその字は読みやすかった。
ちょうど少女がタオルを使って髪を拭き始めたところに、伝達者である中年の男性と女中2人が部屋に入ってきた。
俺は入ってきた男性に予言の書かれた用紙を渡す。
「ありがとう。これでまた民に無事に伝えることができそうだよ。今回も特にスウィ様の様子に変わりはなかったね?」
用紙を眺めながら俺に確認を取る伝達者。
「はい。いつもと変わらない様子でした」
相手はその俺の報告に満足した様子だ。
「シンク=クレール。ご苦労だったな」
そう言ってにっと笑った後、国王に伝えるべく部屋を出て行った。
黙思の海にて予言をする巫女、つまり「黙思の巫女」の名前はスウィ=リヴ。
俺はこの巫女の護衛兼教育係を17歳の時から勤めていた。
「スウィ、お疲れさま」
女中2人に身なりを整えられている巫女のところへ向かう。
海から出た少女は、先程の穏やかな表情とは違って常に真面目な表情を崩さない。
ちょっとしたことでは全く動じないし、感情を表に出すことがないのだ。
「ありがとう」
同じ台詞だが、先程よりも凛とした声が室内に響く。
14歳という年齢であればまだまだ子供らしい話し方をするはずでも、環境のためかそのような姿を見ることがない。
予言をしている時はともかく、普段はもう少し年齢相応の振る舞いをしてもいいんじゃないかと思うんだけど。
実際そのように本人に言ったこともある。でも巫女はそれには耳を傾けようとはしなかった。
海の中では素直なのに。
俺はそのことについていつも引っかかった思いを抱えていた。
3
故郷の砂浜で知り合った子供達4人と昔を思い出しながら思う存分遊び回り、互いに気がすむ頃にはもう夕方になっていた。
辺りが茜色に染まり、水平線へと太陽が戻ってくる。
海にもその色が写り、赤と青が混じって薄い紫になっていた。
温かだった風も徐々に冷たくなってきていて、夜が近づいているとわかる。
名残惜しそうにしていた子供達とまた一緒に遊ぼうという約束をして、俺も自分の家に帰ろうと荷物をまとめて歩き出した。
実家は漁師で、家は海のそばにあるためにたいした時間もかからずに着く。
決して大きいとは言えない木造の家。津波などが起きれば一発で流されてしまうかもしれない。
しかしこの辺りの海は湾になっているため津波は起こりにくくなっていた。
「ただいまー」
扉を開け、軽く声をかける。すぐに母親が食事の支度をしているのか台所に向かっているのが見えた。
「シンク! お帰り」
料理の火を止めこちらにやってくる。すぐそばに近づいてわかったけど、なんだか前よりも小さくなったような気がした。
もちろん自分も大きくなっているからそう思うのかもしれない。でも、よく見ると顔のしわも増えているかも。
……まぁ、それを言うとおそらく怒られるから言わないでおく。
「便りでは昼過ぎに着くって書いてあったから、どうしたのかと思ってたんだよ」
リュックを受け取って俺の部屋に運びながら言う。廊下で「父さんー。シンクが帰ってきたよー」という声が聞こえた。
そのまま居間で待っていると、ひとまず母親が1人で戻ってきた。
「今父さんは裏で網を点検しているところなんだ。お前が今日帰ってくるって言うから、漁の日を1日遅らせたんだよ」
漁師は一度出港をすると幾日も帰ってこない。そのために父さんと会う機会は普段でも少なかった。
「あぁ。ちょっと裏に行って来るよ。みんなにも挨拶してきたいし」
「あ、ちょっと待ちなさい」
いったん家を出ようとした俺を母親が呼び止めた。
「お前……。見た目は大丈夫そうに見えるけど、けっこう堪えていたりしていないかい?」
突然真顔になった母親からじっと見つめられる。
「なんでさ。これからのんびりできるっていうのに」
俺は微笑んだ表情を崩さない。
「スウィちゃんのこと、心配してるんだろ」
思わずぎくりとする。一瞬肩が揺らいだが、ほんの少しのためおそらく気づかれていないだろう……と思いたい。
「スウィなら、平気さ。俺がいてもいなくても、あいつはきちんとやっていけるよ」
「でもねぇ。あの子が巫女になる前からあんた達は一緒にいたじゃない」
そう。黙思の巫女スウィもこの村の出身だった。スウィが生まれた頃俺は10歳だったから、その時のこともよく覚えている。
兄弟のいなかった俺には近所に住んでいたスウィが本当の妹のように思えていたのだった。
「俺が護衛を続けていたいって思っても、それには限界があってさ。できることとできないことがあるんだよな」
両腕を上げて軽く伸びをしながら呟く。
「巫女はその名の通り、男を近づけてはならない、ってね。それでも長かったと思うよ。今までが例外」
巫女になれる資質を持った人は、今まで未婚の女性でしか見つかっていない。どうしてかという根拠は全くないけど、人数が数少ないため不安要素は全て取り除きたいらしい。
つまり、結婚することによって巫女となる資質がなくならないか懸念があるということなのだ。
それもあって、主に護衛を勤める騎士でさえも、普段は巫女に近づくことができない。
本来はもっとずっと前から俺とスウィは引き離されるべきだったのだ。
「その代わりに、国は次の仕事をいい条件で見つけてくれたってわけ。最近この村の周りも物騒になったっていうじゃないか。特に男達が漁に出ている時だったら危険だし」
そう言って俺はにんまりと笑う。
「この村に騎士が何人か派遣されてても、人数も少ないし心配だったからさ、俺が来られて良かったと思うよ。ずば抜けて腕が立つわけじゃないけど、役に立つと思うぞぉ〜?」
俺の話す様子は、無理をしているように見えた……かな。自分でも少し不自然かもしれないとは思ったが、とりあえずそのままにしておいた。
「わかってるよ。お前には期待してるさ。正直あたしは嬉しいしね」
母親もようやく微笑む。そして俺に近づいて背中をばんばんと叩いた。
「あたっ。いてててて……。相変わらず力強すぎだよ」
腰を屈めてその手から逃れようとする。
「何言ってんの。このくらいなきゃね、漁師の妻は務まんないんだよ。ほれ、とっとと挨拶に行っといで」
「はいはい……」
少しひりひりする背中を腕の届く範囲でさすりながら、俺は村のみんなへ挨拶をするために外へ……出ようとした。
「あ、ちょっと待ちなさい!」
今度は何だ? そう思いながら俺はまた母さんの方を振り返った。
「スウィちゃんの様子はどうだったのさ」
「はい?」
母さんが何を言いたいのか、俺にはよくわからなかった。
「スウィちゃんも、あんたがここに帰ってくるってことは知ってるんだろ?」
「あぁ。知ってるよ」
なんだか話が長くなりそうだったため、俺はもう一度家の中に入って台所の椅子に腰を落ち着けた。
「笑顔で『お母さんによろしくお伝え下さい』って言ってた」
母さんはその俺の言葉を聞いて、なんだか信じられないようだった。
「あのスウィちゃんが、そんなことを言ってたのかい。シンクが視界からなくなるだけで泣き出していたあの子がねぇ……」
俺はその台詞を聞いて思わず吹き出してしまう。
「母さんなぁ。スウィももう14だよ? 子供じゃないんだからさぁ」
「だって、あんたがこの村を出て行った時のスウィちゃんをなだめるの、大変だったからさぁ」
……確かにあの時のスウィの様子にはかなり参った。
俺の腕にかじりついて「やだよう……」を連発した上に散々泣いてばかりで、どうしたらいいのかと本当に悩んだ。
最後はもう半分強引に話を進めてしまっていて、俺が出発した後もしばらく尾は引いていたようだ。
俺が休日に村に帰るまでずっと、一度も笑わなかったと帰ってくる度に言われていた。
スウィの大好物を食卓に並べても、おもちゃを買ってあげても全く効き目がなし。すっかりお手上げ状態だったらしい。
「あの時のようなことは、もう今のスウィにはないよ」
昔のスウィと、今のスウィ。両方を思い浮かべながら、俺は静かに言った。
「今のスウィは、俺も寂しくなるくらい、聞き分けのいい子だよ」
そう言って立ち上がり、今度こそ家の外へ出た。今度は母さんからは呼び止められなかった。
一瞬見えた悲しそうな表情が少し痛かったけど。
外はもうすっかり暗くなっていて、辺りに建っている家の窓から光が覗いているのが見えた。
4
「君は……シンクと言ったね」
「はい」
13歳の時に騎士養成所に入って2年修行をし、15歳の時からはまず騎士見習いとしてお城で仕えたり、あちこちに職務のため派遣をされたりして日々を過ごしていた。
それでもまだ若い騎士に仕事は少なく、週に1回ある訓練の日以外は実家に帰って母親の手伝いをしたりもしていた。
そうして俺が17歳になろうとしていた時、急に直属の上官であるルトレット様から呼び出された。
どんな話だろうとお城に向かい、上官に連れて行かれたところはなんと玉座の間だった。
初めて近くで見る国王は、思ったよりも若い。それでも、何も話さなくても見た目だけで貫禄が滲み出ていて国王となる風格を持ち合わせていた。
声が震えているかもしれない。そう思いながら国王からの問いかけに答える。
「実はまだこのことは皆には明かしていないが、黙思の巫女が亡くなった」
「……!」
声には出さなかったが驚きの大きさは尋常ではなかった。巫女が亡くなったということは……。
俺の表情の変化に気づいたのか国王が話を続ける。
「察しがいいな。お前も知っている通り、巫女となる資質を持っている者はこれでスウィ=リヴのみとなる。年齢は……7つか。とはいえ、そのことを考えていられる余裕はないのだ」
手に持っている資料を置き、俺の方を見る。
威圧感では決してないが、優れた人間特有のオーラが届いて、反対に自分のふがいなさが露見されているようだった。
「こういった話をするのもなんだが、実際私よりも予言をする巫女の方が民の信憑性が高くなっている。そのために巫女の座を空席にするわけにはいかないのだ」
いつかは訪れると思っていた。それでもこんなに早いとは思っていなかった。せめてスウィが15になるまではなどと考えていたのに。
「本音としては今すぐにでもスウィを巫女として迎えたい。実際もう使いのものを送らせたが、やはり幼すぎるためか我々を受け入れようとはしないのだ」
それはそうだ。まだ10にもなっていない少女に突然使命を伝えようなんて無理だ。
ただでさえスウィはちょっとしたことでも心に影響が出てしまうというのに。
俺はスウィの能力と、こうしなければならない状況を呪った。
両手をぎゅっと握り締める。
「そこでだ」
しばらく国王は何かを考えていたようだったが、それがまとまったのか再び話をする。
俺は国王をじっと見た。
「スウィと共にシンクも神殿で勤める気はないか? もちろんスウィが神殿に適応するまでだが、ちょうど騎士でもあることだし護衛兼教育係として迎えよう。スウィも家族のように慕っている者が一緒となると大丈夫かもしれん」
俺は国王を見つめ続ける。
国王の顔は常に穏やかだ。
無理に連れて行くのではなく、最善と思われる方法を考えてくれている。そのことは素直に嬉しかった。
スウィのことはもちろん心配だし、国王の役に立ちたい。何より自分は王国に仕える騎士だ。スウィにとっても、自分にとっても有難い話だった。
「私でよろしければ、これ以上のお話はありません」
こうして俺は、神殿の中で唯一スウィに近づける男性となった。
護衛としても教育係としてもまだ未熟だとの声もあったが、スウィのことを考えていくとこれが最良の策だということで、いつしかその声もなくなっていった。
「スウィ、お茶が入ったよ。読書もいいけど、たまには休憩すればいいのに」
黙思の巫女とはいえ、予言をするために海に入る時以外は普通の人と同じように一日を過ごす。
朝は勉強、昼は散歩の後読書、そして夜は星を眺めたり音楽を聴いたりなど。
「ありがとう。そこに置いて下さい。きりのいいところまで進んだら飲みます」
本から目を外さないスウィ。瞬きをするのも惜しいのか、目をしっかりを見開いて本の文字に見入っている。
「このままだったら確実に冷めるな」
苦笑して呟いて、入れたお茶を自分で飲む。用意だけしておいて、一息ついたところですぐに入れられるようにしよう。
知的好奇心だけは普通の少女と変わらない。
神殿から出られないスウィのかわりに月に何度か図書館に行って好みそうな本を借りたりしていた。
最近はいつもすぐに読み終えてしまうために借りに行くのも一苦労だなどと思いながら、気がつけば真顔でスウィを見つめる自分に気づく。
スウィが常に丁寧語を使うようになったのはいつからだったかな……。
神殿に迎えられた7歳の頃はまだ違ったはず。
やはり徐々に神殿の暮らしに慣れてきた9歳頃からだろうか。
始めはよく話し言葉と混ざったりしていたものだが、神殿に来てから5年後くらいにはもう確実に使いこなせるようになっていた。
そのために年齢よりもいくつも大人びて見える。
もちろん周りが大人ばかりな上に巫女という役割もあってこうなってしまったのかもしれないけど……。
俺はスウィが神殿での暮らしに適応していくのと同時に、なんとも言えない寂寥感に包まれていったのだった。
5
俺が村に帰ってきてから、だいたい1月が経過した。
今のところは全くもって平和で、毎日子供達と遊んだりしながらのんびりと日々を過ごしていた。
子供達は驚くべきことに俺も見つけられなかった探検場所を発見したりして、そこから見える景色にみんなで感動したりした。
もちろん遊んでばかりではなく、漁で男達がいなくなっている時期は力仕事を請け負ったり、平和すぎると剣の腕が鈍ってしまうため、同じ騎士の同僚と手合わせをしたりもした。
それでも俺は村にいるほとんどの時間を子供達と一緒に過ごした。
いつしか遊ぶ子供達の人数も増え、俺はすっかり先生役として定着していたのだった。
「お兄ちゃん! 今度僕も剣を習いたいな!」
俺にしがみついて朗らかにねだるその様子は、やはり子供らしいというかなんというか。
実際、俺は頼られるのが嫌いじゃない。
集まってきた子供達の目をじっくり見ていくと、そのどれもが光り輝いてとても眩しい。
「よぉし。それじゃ、覚えた剣技で絶対に人を泣かさないって誓うなら教えよう〜」
「本当? 僕絶対に守るよ!」
「僕だって!」
無邪気に全てのことを吸収していこうとするその様子は、自分の昔を思い起こさせる。
俺もみんなの役に立ちたくて、みんなを守りたくて騎士になりたいと思ったからだった。
俺も昔はこんな目をしていたのかな。
「あぁ。本当だ。でもまだ本物を持つのは危険だから、木の枝でな」
「えぇ〜」
不満そうにする子供達。それでもやはりと思ったのか、それは本気ではなさそうだった。
「木の枝だって使い方を間違えば危険なんだぞ。怪我をすることだって多いんだからな」
「は〜い」
子供達は俺の言うことを素直に聞いてくれる。そして「いつ教えてくれるんだろう」「楽しみだなー」などと話し合っていた。
正直、俺はこういうことに向いているのかもしれない。
子供達といると、自分も子供に戻ったような気がしてくる。
でも。俺は1人の子供らしくない少女のことを忘れたことは決してなかった。
目の前の子供達の愛らしさを見ていると更に黙思の巫女との差を感じずにはいられない。
本来なら、この子供達のように元気に砂浜を駆け巡ることもあっただろうに。そうする前から、もう巫女としての将来が決定されてしまったんだ。
遊びから卒業する時期が早すぎたせいか、感覚としてはもう既に大人と同じになってしまっている少女。
今はどのように過ごしているんだろう。
それでも、心配しているのは俺だけで、実際は何事もなく平穏な日々なのだろう。そう考えると俺は自意識過剰かもしれないなと思う。
まぁ、何もないならそれが一番なのかもしれない。
ところが、いつものように子供達と思う存分遊んで、夕方に自宅に戻った俺を待っていたのは母親だけではなかった。
「ルトレット様……。お久し振りです」
かつてお城で仕えていた時の上官がなぜか自分の家にいる。
なんとなく嫌な予感が頭をよぎったが、それが確かだとわかるまでは考えないようにした。
自分より12歳も年上の上官は、俺を見ると立ち上がって近づいてきた。
「この村はいいところだな。のどかで。お前もずいぶん日に焼けたな」
以前から穏やかな人だと思っていたが、しばらく会わないうちにそれに更に磨きがかかったかもしれない。
「ありがとうございます。ところで、ルトレット様がわざわざこんなところにいらっしゃるなんて……」
ルトレット様が上官を勤めている隊は普段も忙しくて余裕がなさそうだったために、どうしてだろうと思った。
とりあえず早く用事を聞き出して、胸の中にある気がかりを払拭してしまいたかった。
「お前なぁ。用件を急ごうとするな。まぁその気持ちはわからなくもないが……」
そう言って1つため息をつくと、途端に表情が真剣なものに変わった。
「実はな。スウィ様が……」
スウィの名前が出たことによって、俺の身体に緊張が走る。
そんな俺を見て、ルトレット様が続けた言葉は。
「黙思の海で溺れてしまったのだ……」
俺はその台詞に思わず手に持っていた荷物を落としてしまった。
「ええっ! ……そんなことが……」
ルトレット様から言葉が発せられるまで、様々なケースを想像していたけれど、海で溺れるなんて全く考えていなかった。
そもそもスウィは黙思の海に入ることができたからこそ巫女となったのではなかっただろうか。
「どうしてこんなことが……」
このような反応をすることがわかっていたのだろうか。ルトレット様はあくまでも淡々と事実を伝えていく。
「信じられないだろうが、本当なのだ。月に一度の予言の日、海に入ったスウィ様は、そこで息ができずに……。つまり予言もできていない」
ルトレット様はどうしたらいいかおそらくわからないまま俺のところに来たのかもしれない。このような事態は初めてだろうから。
それでも、俺もどうしたらいいのか……。
すっかり固まってしまった俺とルトレット様。
そのまま、しばらく時間が流れたように思えた。また、反対に止まってしまったかとも思えた。
「行ってきなさいよ」
時計のねじを巻いてくれたのは、母親だった。
「今はスウィちゃんにとっては一番大変な時期なんだから。何もできなくてもいいじゃない。すぐにでも行きなさい。そばにいてあげなさい」
後押しされたのは、行動だけではない。今まで考えないようにしていた心までも、強く背中を押されたような、そんな気がした。
母さんは特にスウィのことを心配していたからそう言ったのかもしれない。でも、その台詞は俺に1つの決心をさせた。
踵を返して自室へ向かい、必要なものをすぐ準備してルトレット様を見る。
上官も深く頷いてくれる。
時間も夜だということを全く気にせず、すぐ出発した。
神殿へ向かう途中、あらかじめ用意されていた馬車の中でルトレット様は御者に聞こえないよう小声で呟いた。
「大きな声では言えないが、診てもらった医師によるとスウィ様が海に入ることができなくなった理由は精神的なものが考えられるそうなのだ。私達は今まで黙思の巫女に対しては最善の策をということで行ってきたが、今回シンクを村へ戻したのは過ちだったのかもしれん」
精神的なもの……。やはり巫女として生きていくには負荷が大きすぎたのかもしれない。
スウィは物事に対して全て期待を裏切らないようにと考えてしまうタイプだ。
年齢に伴わない毅然とした態度も全てそう。
そうして7年間耐え続けていけば、自分の許容量をはるかに越える負担がかかったと考えても不思議ではない。
「俺は結局、スウィのために何もできなかったのかもしれないですね」
腰を折り曲げて膝に額をつけ、目を閉じる。
閉じて真っ暗になった視界では、表情を崩さないままのスウィが浮かんでいた。
「そうじゃないんだ」
俺の言葉を受けたルトレット様がそれを否定する。
「スウィ様は無条件でシンクを信用しきっている。初めて巫女として迎え入れた時もそうだった。7歳という年齢で大業を成し遂げることができたのもシンクの影響があるからだと私は考えている」
「ありがとうございます……」
俺はただそれだけしか言えなかった。
俺から見てみれば尊敬の対象に当たるルトレット様からそこまで言ってもらえるなんて。
「スウィ様がシンクを頼っているというのには、私にはどうしても理由があるとしか思えないんだが……」
ルトレット様の呟きを聞き、俺は1つの出来事を思い出していた。
今思えば、あの時からスウィは俺のそばを離れなかったのかもしれない。
6
スウィの父さんは、スウィが生まれてからすぐに漁をしている最中の事故で亡くなっていた。
当時その漁船の船長をしていた俺の父さんは責任を感じていたのもあったかもしれないが、スウィとその母さんの生活を援助するようになった。
スウィの母さんであるミルトおばさんは昔から身体が弱く、働くことはできなさそうだったから。
幸いにも父さんの漁船は漁獲高も多くて、2人増えた家族もなんとか養える状態にあった。
住んでいる場所は別でも近かったため、本当の家族のように一緒に過ごした。
そんなミルトおばさんの容態が急変したのは、ちょうど父さんが漁に出ていた時だった。
俺は16歳で、騎士になりたての時期だった。仕事もそんなになく、週に1度だけ街に戻ればよかったため、生活のほとんどを生まれ育った村で過ごしていた。
その時も俺は家にいた。留守番がいるからと母さんは街までミルトおばさんの薬を買いに出かけ、戻ってくるのは明日だと言われていた。
「おかあさん……」
苦しそうに息をはき、ベッドに臥しているミルトおばさんは高熱が出ているようで顔が熱い。
先程から濡れたタオルを額に乗せているが、すぐに温かくなってしまい、何度も取り替えなければならなかった。
熱があるというのに顔は真っ青で、具合は非常に悪い状態だが、医学の知識などなく結局どうすることもできない。
スウィの頭をぐしゃぐしゃとなでて、少しでも安心できるようにした。
時間は既に夜遅く。窓からの景色は暗くて何も見えず、ただ海の波の音が聞こえるのみ。
部屋の中のランプの光が、ミルトおばさんの顔を照らす。
スウィはもう睡眠の限界にきているのか、度々頭が揺れる。
それに気がついた俺はぱんぱんと軽く頬を叩いて起こす。
目が覚めたスウィは強く瞬きをしてなんとか眠気を解消させようとする。
こうして2人でなんとか起きていたのだが、俺も徹夜の経験は数えるほどしかなく、船を漕ぎかけた時。
「おかあさん……!」
小さいながらも力の入ったスウィの声で我に返った俺がおばさんを見ると、目を開けたおばさんがスウィの手を握り締めているところだった。
「ごめんね……」
言葉を話すのもつらいのだろう。口を動かすごとに苦痛の表情を浮かべる。
ぶんぶんと左右に首を振るスウィ。
しばらく自分の子供をじっと見つめていたミルトおばさんが、ふと俺の方を見た。
「お願いね……」
今度は俺が首を上下に振る番だった。
何も言葉が出ない。何も言えない。
それでもミルトおばさんは俺のその様子を見て安心したのか、ふっと笑顔になった。
「おやすみ……」
そう言ってゆっくりと目を閉じる。そうして閉じられた目は、もう二度と開くことはなかったのだった……。
それからしばらく、スウィは家から出てこなかった。
狭い家でも、2人でいるのと1人でいるのとでは広さが全く違ってくる。
単純な面積でも、そして心でも。
食事も全く受け付けようとはしなかった。だからスウィまで具合が悪くなってはと毎日家まで運んだ。
自分から手をつけようとしないため、食べ終わるまでずっと居座ったり、食べさせたり。
粘り強さに負けたのか、食事はきちんと取るようになった。
時間が経つにつれ、俺とは話をしてくれるようになった。
互いに笑うことはできなかったが、冗談も言い合えるようになった。
そうして、いつの間にか外にも出られるようになった。
何か衝撃があるともろく崩れそうではあったが、普通の生活を送る分には全く不自由はしなくなったのだった。
7
俺とルトレット様が神殿に着いたのは明け方だった。
心身ともに疲労してはいたが、馬車でうたた寝したのがよかったのか気にはならなかった。
すぐにスウィの部屋へと向かう。
そこには、昔を思い出させるような、高熱にうなされている黙思の巫女がいた。
「海で溺れてから、まもなく熱が出てきまして……」
俺の代わりを勤めることになった女性騎士が言う。
「スウィ?」
足早に近づき声をかける。
苦しみから逃れるように眠ろうとしていたのだろうか。まぶたをぎゅっと閉じていたスウィが目を開ける。
その視界に俺を捕らえて目が見開かれた。
ほんの一瞬だけ、スウィが微笑んだのを見たのはおそらく俺だけだろう。
「シンク、どうしてここへ?」
俺から目を離さないままゆっくりと話し出す。
「何言ってんだよ……。海で溺れた上に高熱まで出すなんて。心配して来たんだ……」
「ごめんなさい」
汗で額に張り付いた前髪を軽く梳かす。
「謝るくらいなら、早く元気になれ」
「はい」
そう返事はしたものの、症状は重いのだろうか。時々顔を逸らして強く咳き込む。
俺はその度に背中を軽くさすったり、薬湯を渡したりした。
スウィの表情が穏やかになったからだろうか。部屋にいた女中や新しい教育係、そしてルトレット様が部屋から出て行く。
うとうとと軽く寝息を立てたスウィの頭をずっとなでる。
それからしばらくは何もなく、薬が効いて良くなってきているのかもしれないと安心をしていた。
だが、ルトレット様から言われたことが気にかかる。
「精神的なもの……か」
熱が下がって体調は良くなっても、海に入ることができなければ巫女としてはいられないことになる。
なぜだろう。
どうして急に海はスウィを受け入れなくなってしまったのだろう。
しばらくそれについて物思いにふけっていた。
「ごほっ……ごほ……」
急にスウィが目覚めて強く何度も咳をする。
寝ていた体勢から背中を支えて起き上がらせ、背中をさする。
目に涙をいっぱいためて、俺を見つめるスウィ。
それでもなんだかしばらく何かに迷っているようだった。
でも。スウィの瞳の色が少し変わったような気がした。
「苦しいよぉ……。シンク、助けて……」
「……!」
いつも何があっても心乱すことなく過ごしていた黙思の巫女スウィが、何年かぶりに1人の少女に戻った。そんな瞬間だった。
巫女になって初めて精神的に頼られたかもしれない。
こんな時に何を考えているんだと怒られそうではあるが、ただ単純に喜びを隠すことができなかった。……嬉しい。
それと同時に、必ず助けなければと強く思った。
俺の方を見上げているスウィを改めて見つめる。
先程よりは顔にも赤みが出てきたような気がする。
もしかしたら……。
「……海に入るのは嫌いかい?」
スウィを抱きしめながら問いかける。
精神的なものが影響しているというのなら。
スウィは黙思の海に入りたくないと根底で思っているのかもしれない。
「ううん。海は好き。村のとは違うけど、泳いでいると気持ちいいし、楽しい」
それでは、どうして溺れてしまうのだろうか。やはり海から拒まれているのだろうか……。
危険ではあるが、再度確かめてみたかった。
「怖いかもしれないけど、今海に入っても大丈夫かい?」
スウィが俺を見上げる。
「うん……。いいよ。私も入りたい。連れてって」
そして俺の腕の中にすっぽりと入る。
いつの間にか、スウィの咳は止んでいた。
スウィを横抱きにして、部屋から繋がっている海の間へと向かう。
具合の悪いスウィを海の中に入れるということで、水温が低ければどうしようかと思ったけど、それは杞憂でぬるま湯のような心地よさだった。
ほっとしつつスウィと一緒に海へと入る。
俺が海へ入るのは、入る資格があるかのテスト以来2回目だった。
あの時は20秒も持たなかったんだよな……。その時のことを思い出して苦笑する。
スウィはそのような俺の様子を見て首を軽く傾げていた。
とりあえず普通の人のように水には潜らず水面に浮かんでみる。これは俺でもできるし、全く問題はない。
これからだった。
(平気?)
言葉ではなく、目線のみの会話だったが、スウィには通じたようだ。
「平気」
そう言って目を閉じ、俺の手を握り締めて徐々に沈んでみる。
始めは息を止めていたようだったが、勇気を出して息をしてみる。
「……」
緊張した面持ちだったが、それが次第に解けていく。
俺がいつも見ていたような、海の中での微笑んだ顔になった。
「やった」
スウィの髪の毛を何度かとかし、そして手を離す。
本来の黙思の巫女としての資質を取り戻したスウィを眺め、俺はみんなに復活を告げに向かった。
まだ具合が思わしくないため、みんなに確認をしてもらった後すぐにスウィを引き上げた。
軽くくしゃみをした巫女と、そして自分にタオルをかける。
2人で顔を見合わせ、そしてずぶ濡れの様子がなぜかおかしくて、どちらともなく笑い出す。
そして大事を取って水を拭き取った後ベッドに戻ったスウィを、部屋の隅で見守る俺とルトレット様。
「やはりシンクはスウィ様の教育係に復活だな」
穏やかに眠りにつく少女を見守る上官。その様子は、俺と同じようにルトレット様もずっとスウィを見ていてくれたんだなぁと思えた。
「いいんですか?」
巫女に男性を近づけてはいけないという国王の趣旨に上官も賛成していたというのに。いつの間にか考えが変わったようだ。
「この状態を見てこの絆を壊そうとする者は誰もいないよ」
声を立てて笑う上官に肩をどんと叩かれて、俺はなんとも言えなくなってしまった。
「国王には私から報告をしておこう。……もしかしたら黙思の巫女の歴史が変わるのかもしれないな」
「ありがとうございます。今回は本当にお世話になりました」
深々と頭を下げ、元に戻した俺を待っていたのは、父親のように優しく目を細める上官の目だった。
「私にも娘がいたら、こういう気持ちになるのかもしれないな」
ルトレット様には子供がいない。そのためにもしかしたらスウィを本当の子供のように思っていたのかもしれない。
「大切にするんだぞ」
そう一言付け加えてから、部屋の外へ出て行った。
「もちろん。言われるまでもありませんよ」
俺はベッドですやすやと寝息を立てている巫女を見ながら、そう呟いていた。
8
いつの頃だったか……。よく覚えていないが、村の海で2人で泳いでいた時、スウィが言っていたことがあった。
巫女として神殿に迎えられる前だから、スウィが6歳の頃かもしれない。
「あたしはずっとシンクのところにいるんだよ。とおくにいっても、ずっといる。だから、シンクもずっと、あたしのところにいて」
あの時はスウィの言ったことがよくわかっていなかったのかもしれない。
「スウィ?」
そのまま聞き返す。
「シンクといられたら、あたし、なんでもできるんだっておもえるんだ。だからいるっていって?」
母親を亡くして、寂しくなっているのだろうか。
もうこれ以上、身近な人をなくしたくないと。
俺はその時はそう思った。だからすぐにこう答えたのだった。
「あぁ。俺がずっといてもいいのなら、いるよ」
「そういえば、私ね、久し振りに村の海を見に行きたいな」
読書をしている手を止めて、スウィが俺に話しかける。
「だって、1ヶ月の間にシンクはすっかり日に焼けてるし。うらやましいよ。でも無理かなぁ……」
再び本に目線を移し、読書の続きを始める。
俺は剣の手入れをしながら少し考えていたが、
「それじゃ、次の月の予言が終わったら出かけてみるか。たぶん母さんも会いたがっていると思うし」
こんな言葉がかかるとは思わなかったのだろうか。栞も挟まずにぽんと本を閉じ、机に乗せてから勢いよく近づいてくる。
「本当? 出かけて大丈夫なの?」
スウィは巫女になってから一歩も神殿の外へ出たことがない。それは国王から禁じられていたからだった。
「ルトレット様を通じて掛け合ってみるよ。たまにはわがままも言わないとな」
「やったぁ!」
両腕を伸ばして体中で喜びを表現するスウィ。その様子は村の無邪気な子供達を想像させた。
子供らしさを取り戻した黙思の巫女は、14歳という年齢よりもなんだか幼く見えるが、一番の遊び時期を経験せずに過ごしてしまったため、多少のことは大目に見ていた。
「そういえば、約束も守らないとな……」
村で子供達に剣技を教えると言っていた約束は、スウィの一件ですっかり流れてしまっていたが、おそらくあの子達のことだ。ずっと待ってくれているだろう。
頻繁に村にも帰るようにしようかと決めた俺の目には、まだそばではしゃいでいる少女が写っていたのだった。