そよ風が吹く頃

新たな課題


さぁ、行こうよ。
大丈夫だから。

きっかけはもうすぐ来てくれるから。
ただ、差し出された手をつかむだけでいいから。

そうしたら、広い広い世界が見えるよ。
怖がらないで。

私、今度は失敗しないね。

うん、頑張って。
僕は待ってるから。



 シルフィードを説得するのに成功したマルベリーには、あと二つの課題があった。
 一つは、両親を説得すること。もう一つは、これからどうしていくのか決めること。
 旅に出ることを決意したとはいえ、手がかりが全くない中、どこへ行けばいいというのだろう。
 マルベリーは結局いつものままで、たいした発展もないまま日々を過ごしていた。
 自分の部屋の机で頬杖をつき窓の外を眺めている。
 辺りには村の小さな建物がちらほらあるだけで、あとは森の木々しか見えない。
 マルベリーは今まで村から外に一度も出たことがなかった。
 6歳の時に父親に拾われてから今までずっと、この小さな村で暮らしていたのだ。
 今までそれのせいで嫌だと思ったことは数知れないが不便だと思ったことはなかったし、外の世界に両親が出そうとは思わなかったということもある。


 元々両親はここの村の人間ではなかった。
 父親であるコンフリーが小さなエルフをたまたま薬草探しの帰り道に偶然見つけるまでは、そこそこの大きな街で普通に暮らしていたのだ。
 マルベリーが家族の一員になってからは、異種族を迫害する人間達から逃れるためにここの村に引っ越してきたのである。
 ここの村は人の往来も少なく、村の人達も外へ出たりすることはなかった。
 コンフリーは昔偶然この村にやって来た時、その特色を非常に異質なものとして印象強く捉えていた。
 それが幸いしてエルフの少女を育てていくのにちょうどよい環境を発見できたのだ。
 村には薬師がいなかったため一家は歓迎された。しかしマルベリーに対する接し方はやはり異種族として排除された形だ。
 ただ、この狭く限定された世界の中では両親の目は隅から隅まで届くだろうし、治療を受けるためには薬師の娘にそんなに強く迫害はできないはずだった。
 そして、小さなトラブルはしょっちゅうあるが、生命が脅かされるほどの虐待は受けずにこの十年を過ごしてきたのである。


「私、なんだかんだ言っても、怖かったんだろうね」
 マルベリーは一人呟く。
 今まで親の目を逃れて外に出ることができなかったわけではないのに、それをしなかったということは、村の人々以外の人間を見ることに対しての恐怖があったからなのだろう。
 勿論村の人達だって、できることなら会いたくない。
 しかしそれは村に住んでいる限り仕方のないことだし、もう住んで十年にもなる。
 村の人達がどのような行動をとるか、もうすっかり理解することができていた。
 特にちょっかいを出すような人間は単純な行動しかできていない。
 こういう時にはこういう行動をとればいい。十年という月日をかけて少しずつ身につけてきたのだった。
 なので村の中ではある程度の無茶はすることができるのである。
 村の外に住んでいる人間は未知の領域だった。村の人達と同じような行動・思考パターンとは違うこともあるかもしれない。
 そして、そういう場面に出くわしてしまった時に上手くかわすことができるのか、それを考えると頭の中が真っ白になってしまうのである。
「とりあえず、外がどうなっているのかを一度見てみる必要があるよね」
 独り言を呟き、そうすることで自分を納得させながらマルベリーは重い腰を上げた。
「シル、ひとまず外に行こう」


 村から外へ出るまでには2通りの道がある。
 一つは人の通らない、すっかり寂れてしまった街道を歩くか、もう一つは迷いの森から外へ抜ける方法である。
 迷いの森はいつも行っている野原の奥を進んだ所にあり、村の人々はまず間違いなく近づかない。
 恐ろしい怪物がいる、または一度入ると抜け出せないと言われているためだ。
 マルベリーは野原に行ったついでに迷いの森へも入ったことがある。
 道もなく、目印になるものもないため確かに普通の人が入れば出ることはできないかもしれない。
 しかし感覚は人間よりも優れているし、シルフィードや他の精霊達の案内を受けられるため、無事に帰ることができていたのだ。
 マルベリーは誰にも邪魔される恐れのない迷いの森から外の世界を眺めてみようと思い立った。
 いつも来ている野原まで歩いてやってくる。小高い丘から村の様子がよく見えた。
 今日は村の子供達に隠れて眼鏡もかけてきている。
「変わらないなぁ。ここから眺める風景って」
 マルベリーはこのお気に入りの場所を発見してからほぼ毎日ここへ通ってきた。そして、いつも同じ景色を見てきた。
 月日が経つたびに建物の配置が変わったりもしたが、村の閉塞的な雰囲気は全く変わらない。
 ある意味平和というべきか。
 眼鏡をかけているため村の様子がいつもより鮮やかに目に入ってくるけれど、それでも特に何も感じなかった。
「ずっと変わらないっていうことは、いいことでもあるけど」
 マルベリーは休憩のため丘に腰を下ろす。そしてそのまま仰向けに横になった。
 天気はあまり良い方ではない。今はまだ白い雲が数多くあるが、風上の方角から灰色の分厚い雲が次第にやってくるのが見える。
 風も冷たく強くて、先程からマルベリーの髪や服をひっきりなしに揺らしている。
「変わっていないことに対して疑問を持っちゃったら、もうだめなんだよね」
 風に乗って流れている雲を見ながら言葉は続く。
「どうしてこんな生活を続けていられるんだろうって思っちゃうんだ」
 目を閉じる。風のせいだろうか、少々寒い。
 頭の中でこれから先のことを様々な角度から想像してみる。それでも全くまとまらない。
 それこそ、今の目を閉じている状態のように、先は真っ暗で何も見えないのだ。
「もちろん怖いし、そうすることでいいことがあるのかって言われるとわかんないけど」
 両腕を上げ、軽く伸びをする。
 外の、今までとは違う大きな世界の中ではマルベリーの体は霞んで消えてしまいそうになるほど小さい。
「でも、そうしてこのままでいるのは私らしくないよね。疑問を感じたら、それに対して納得の行く答えを見つけ出さないと。……よいしょっと」
 目を開けて先程伸びをした腕を使い、反動をつけて一気に起き上がる。
「行こっか。今日はただ見るだけだし、そんなに構えなくてもいいよね」
 苦笑を浮かべながら、すぐそばにいるはずのシルフィードに声をかけた。
 迷いの森入口までやってきても、まだふんぎりがつかないままでいたのだ。
 何も気にせず入れるようなら何もこんなに考え込まずともとっくに外の世界を見に行っている。
 しかし、今まで一度も外が見える場所まで進んだことはなかった。
 森までは入ることはできるのだが、そこから一歩進むことがどうしてもできなかったのである。
 外の世界を見ることでどう感じるか、自分でもよくわかっていないのだ。
 旅に出られなくなっちゃったりするかもしれない。そう感じるのが怖いのだ。
 勿論人間を見るのも怖いのだが、それ以前に自分の決意が脆くもあっさりと消え去ってしまうのが怖かったのである。
 マルベリーは意を決して森の中へ入っていく。その後をシルフィードも続いた。
 いつものように探険をするような気分で行こう。 そう思い続けながら。


 森の中は天気のせいもあって薄暗い。
 ただでさえ大きな木が葉をいっぱいに広げているのだ。天気がいい時でさえ太陽の光を遮るくらいなのだから当たり前だった。
 それでもマルベリーは顔色一つ変えずに森の中を歩いていく。
 前に何度もこのような薄暗い森の中を歩いたことがあるため、そのことに対しては怖いという感情を出すことはない。むしろ森の中は安心できる空間だった。
 それはエルフの血がそうさせるのか、それとも周りに人間がいないという環境でのことなのか、自分でもよくわかってはいないけれども。
 シルフィードの案内を伴って森の中をゆっくりと歩いていく。
 村の人々以外の人間を見るという緊張からか、あちこちを眺めながら気を紛らわそうとしているようだ。
 それでも今の所は、その歩みが止まることはない。足取りはゆっくりだが、森の出口へどんどん近づいている。
 その歩く足を少しでも止めてしまったら、もうこれ以上歩くことができなくなるかもしれないとマルベリーは思っていた。
 それだけは絶対に嫌だった。
 精神的には大きな負荷を背負ってはいるが、それでももう決めたことだ。
 とにかくひたすら歩き続ける。
 森の中は薄暗いけれど、それでも先程まで吹いていた強い風を和らげてくれている。
 風のため森の木々やその葉が踊っているように揺れている。
 そして、決意を固めた小さなエルフに対して激励の言葉を投げかけているようにも感じる。
 マルベリーは森の木々や葉、小動物達、その他もろもろの自然の恵みからのささやきを聞いた。
 それと、生きとし生けるもの全てに宿っている精霊達の声。
『……大丈夫?』
 これはすぐそばにいるシルフィードの声。
 他にも多くの精霊達が近くにいて事の顛末を見守ろうとしていた。
 この森に住んでいる精霊達は、シルフィードほどではないが、村へ突然やってきた小さなエルフを 物心ついた時から見つめ続けてきたのである。
「今は大丈夫だよ。私は弱いけど、強いんだもん」
 ありとあらゆる所からみんなが自分を応援してくれているのを感じ、マルベリーは喜びを隠さずにはいられない。
 本来ならもう決心に砕けて家に帰りそうになっているはずなのだ。
 それを必死に堪えているのは、まわりにいるみんなのおかげだった。
 一人でただ歩いていたのならここまで強い心は持つことができなかっただろう。
「なんだか、だんだん平気になってきたみたい」
 マルベリーは、こうなったら今日は頑張ろうと思った。みんなの励ましを受けて元気になってきたのかもしれない。
 ただ見るだけじゃん。そう自分に対して言い聞かせた。
 怖いという思いだけが先行しているんだ。実際は人間なんて全然怖くないんだと。


 森の景色も、今まで見たことのないものになってきた。
 つまり今まで一度も足を踏み入れることができなかった場所までついに入ってきたということになる。人間がいる場所まであと少しという所まで来たのだ。
 ふと上を見上げてみると、木々の葉の間から灰色の雲で覆われている空が見えた。もうすぐ雨が降るかもしれない。
 森の中は雨宿りになりそうなものが数多くあるため、そういう点では全く気にはならないのだが。
『見えてきたよ。頑張れ』
 シルフィードの声が響く。はっとして前を見ると木々の幹の間から少々の光が出ているのが見える。森の出口へ来たのだ。
 耳をすましてみると人間のもののような話し声も聞こえる。
『森を抜けたら崖みたいになってるから、そこから下を見てみるんだよ』
 ついにここまできた。
 ここまで来るのに、もうかなり長い月日が経ってしまったが、これが新たな旅のワンステップになる。
 マルベリーは覚悟を決めて、森の出口へと歩いていった。
 灰色の雲が空を覆っている状態だが、森の中はそれよりももっと暗かったため、少し眩しく感じ、目を細めた。


 目の前に広がるもの。それは勿論今まで見たことのないものばかりだった。
 いつもの丘から村を眺めるのとは大違いである。
 家が多く広がっており、その建物も一軒一軒がとても大きい。なんだかよくわからないものもある。
 地平線が遠いところに、しかもまっすぐにある。
 そして、一番マルベリーの目を離さなかったのは、広い広い空。大きく広がる山々。
 ずっと憧れていた外の世界である。
 こうして眺めてみると、自分が今までいた世界の小ささといったらなかった。
 その全てを見ようと思っても、見きれないほど多くの物が外にはあった。
「全部……調べてみたいよ。一個一個、これはこういうものなんだっていうことを。何年あっても足りないよね」
 マルベリーは崖の上で両手をいっぱいに広げながら外の世界への思いを馳せていた。
 旅をしている自分の姿を思い浮かべる。様々な物を見て首をかしげながらも面白くて仕方がないというような表情。


 しかし肝心なことをすっかり忘れていた。この場所へやってきた大切な目的を。
『ねぇ、下を見てみなくちゃ』
 外の世界を見てはしゃいでいる場合ではないのだ。旅に出るには数多くの人間を見なくてはいけないのだから。
 外の世界は人間が実権を握っているのだから。
 その恐怖に打ち勝つことができないと、これからもずっと旅ができないままになる。
 財政的な問題や、エルフの子供が一人で旅ができるのかというような問題はひとまず後回しにして、今はただ精神的な問題を克服することから始めなければならなかった。
 そうしなければ何もできない。
 マルベリーの晴れ晴れとしていた顔が途端に曇った。すっかり忘れていた。
 でも、こうして外の世界を見て、旅をするという新たな決意が湧いたことだし、今なら人間を見ても平気かもしれないと思った。
 そのため、特に深く考えもせずに崖の上に座って下を眺めてみた。
「……」
 見たことのないような服装の人間がいる。
 見たことのないような髪型の人間がいる。
 見たことのないような顔をした人間がいる。
 しかも、今まで見たことのない人数だ。さすが大きな街道というべきか。人々の往来は半端じゃなかった。
 マルベリーは予想通り、外の人間をじかに見て震えを覚えていた。人々から目を離すことができず、体が固まってしまったように外を見続ける。
 だが、人々は上から見下ろしている小さなエルフに気づかずに、足早に歩いていく。
 その人達をよく見てみると、服装も、髪型も、肌の色も、みんなそれぞれ違っていた。
 村の人たちは両親以外みんな同じ色の肌と、同じ色の髪と、同じ色の目をしていたのに。
「シル、これってどういうことだろうね」
 マルベリーは小声で風の精霊に問いかける。その表情は人間に対して恐怖に怯えるというよりは、やけに冷めていた。
「人間だって、いろんな人達がいるじゃない。みんながみんな、同じじゃないじゃない。みんな同じだったから、人間はみんなあんなんだって思ってたけど、違うじゃない。これじゃ、耳がとがってるってだけで、人間とエルフってたいして変わりないよ」
 両手のこぶしを握り締める。それでも体の震えはいまだ止まらない。
「私、自分では大丈夫だって思ってるの。想像していたよりも、ずっと平気で、嬉しく思ってるよ。人間の世界で住むようになってからの十年は無駄じゃなかったんだって。抵抗力は少しずつではあるけどついてたんだって。でもね、体が言うことを聞いてくれないの。私はなんでこんなに人間が怖いって思うんだろうね……」
 シルフィードの顔がその声に反応して歪む。しかしマルベリーにはその顔が見えなかった。
 そしてそんなパートナーの感情の変化もわからなかった。
 目を閉じる。眺めている視線に気づかず楽しそうに話をしていた人間達。それは全く村の中での様子と変わりがないのに。
 マルベリーは縮こまって両腕で自分を抱きしめる。
「体の震え……止まってよ……。私はこれからこの中に入っていかないといけないんだからね……」
 いつの間にか目にたまっていた大粒の涙が一つ、こぼれて落ちた。


 マルベリーはあの後家へ帰ってから、ふがいなくも大熱を出して3日間寝込んでしまっていた。
 自分では平気だとは言っていたけれども、やはり精神的ストレスは計り知れなかったらしい。
 それはそうだろう。対人恐怖からまだ開放されていないというのに、負荷をかけすぎたのだ。
 一度に大勢の人間を見るという、今までの経験からすればかなりの無茶だ。
 マルベリーもこの辺りは自分でも自覚していた。部屋にあるベッドで横になっておとなしく療養している。
 食事も食欲はないが可能な限り摂り、お気に入りの若草色のブランケットをしっかりかぶって、安静状態を保っていた。
 今は昼食を取った後の居眠り時間に入っている。コンフリーの調合した薬を食後に飲み、すうすうと静かな寝息を立てていた。
 いつもの元気たっぷりな姿は見る影もない。だが、これも早く病気から立ち直って旅に出たいという一心からだ。
 シルフィードはそんな姿を見て、やはり自分の決断は間違っていなかったと満足する。
『ここまでいい結果が出るとは思わなかったよ』
 マルベリーを守るためにいつもそばにいるけれど、自分でしか解決できないこともある。
 それが、今回の人間恐怖症を克服することだったのだ。
 短期間ということでかなり不安ではあったけれども、順調にパートナーは願い通り一歩一歩を踏み出していっている。
『あの決心は、不完全ではあるけれども、人間への恐怖よりも強かったんだね』
 シルフィードはマルベリーが旅に出たいと訴えた時のことを思い出していた。
 感情に流されつつ素直に旅を認めてしまったけれども、時には恐れずに踏み出すことも必要だと思えた。
『ひとまず、なんとか元気になってもらわないとね。まだ完全に平気になったわけじゃないし』
 初めて外にいる大勢の人間を見た時の、マルベリーの体の震えを風の精霊はずっと気に病んでいた。
 思わず顔が曇ってしまう。
『心の片隅で記憶が残っちゃってるのかな……』
 それを振り払い、髪の毛を撫でる。
 マルベリーは軽く寝返りを打つ。眠りが浅かったのか、目を覚まし薄く目を開けた。
 シルフィードは途端にびくりとする。
『あれ、起きたんだ。……もしかして、さっきから起きてた?』
 マルベリーは寝ぼけて目をこすっている。腕を伸ばしおおきくあくび。
「ううん。今起きたばかりだよ」
 その答えを聞き心底ほっとするシルフィード。
 そして、驚かされたお返しとばかりに目を細めている病人の肩に乗って笑いながら呼びかけた。
『今はゆっくり寝てないとだめだよ。それにしても、こんなに寝込むのってかなり久し振りだよね。確か前は2年前くらいだっけ。知恵熱でも出たんじゃない?』
 マルベリーは頭の回転が悪いながらも、その言葉には敏感に反応する。
 再度目をこすって、今度は目を見開いてシルフィードを軽く睨む。
 ぷうと大きく膨らんだ頬は、熱があるせいか紅を差したように赤かった。
「私、そんな子供じゃないもん。確かに体は小さいけど、そんな年じゃないもん」
 怒ったことで脳を働かせたからだろうか。頭を抱えて苦しそうな顔をする。
「頭痛い……」
 少しからかいすぎたかなと反省しつつ、シルフィードはこういうやり取りに小さな幸せを見出していた。
「ひとまず、早くこれを治さないとね」


 結局、マルベリーがまともに動けるようになるまで、その後2日間を要してしまったのだった。


 マルベリーは全快後、シルフィードに連れられていつもくつろいでいる迷いの森の入り口までやってきた。
 今日の空は真っ青。よく晴れていて、とても過ごしやすい気温だ。
「天気、いいね。今日も頑張ろうって思うよ。そして、今日こそは人間を見ても熱を出さないように頑張るよ」
 ころころとにこやかに笑う。
『頑張ってね。まだ他にも気になるところはあるけど……』
 マルベリーは膝を抱え込んで座り、一時の休憩を取る。
 風の精霊は、その傍らに腰掛ける。
「そうだね。問題はこの体の震えなんだよね」
 空を見上げ、穏やかな風に流されて動く雲を眺める。その視界に急にシルフィードが入ってきて一瞬体のバランスを失い草原に横たわる。
『不安なことはたくさんあるけど、私は大丈夫な気がしてるよ。努力してできなかったことってないもん。とっても大変な薬草の調合だって一生懸命勉強してできるようになったりしたじゃない?』
 シルフィードは、ほんの数日前とは極端に違う言葉をパートナーに投げかける自分に驚く。
 マルベリーと、そして自分を守りたい一心でずっと保守的意見を貫いていたのに。
 その意思がこんなに簡単に変わってしまうなんて現金だなぁと自分で自分を笑わずにはいられなかった。
『頑張ろうね。無理はしなくていいからさ、この前みたいに一気にじゃなくて、少しずつ慣らしていこうよ』
 マルベリーは眩しく光る太陽を手をかざして遮りながら、
「わぁ。びっくりしたよ。急に目の前に出てきたのもそうだけど、急に応援もしてくれるようになったんだね」
 シルフィードはその手に座り、足をぶらぶらさせながら腕組みをしていた。
『意地悪だね。私だって、できれば最初から認めたかったんだよ』
 そうしてすぐに、横に移って同様に寝転ぶ。
 マルベリーは、先日見た外の世界の広さに思いを馳せていた。
 今まで見ていた世界の狭さを痛感し、もっとたくさんのものを見て、もっと色々なことを知りたい。


 しばらく太陽の光に当たってまどろんでいた二人だったが、
『さて、そろそろ行きますか』
 そう行ってシルフィードは隣で軽く寝息を立て始めていたパートナーを起こす。
「行きますかぁ」
 起こされた小さなエルフは両腕を大きく広げて伸びをしてから、バッグから布を取り出し眼鏡を拭いた。


 それからはますます順調だった。
 迷いの森の出口から人間に慣れる訓練を初めて1週間になるが、やはり崖の上から覗くだけでは人間には見つからないために危害も受けない安心感も手伝って、毎日広い世界を見ることができる喜びにすっかり浸っていた。
「もしかしたら、この広い空のどこかに私の家族がいるかもしれないんだよね」
 マルベリーは呟く。
 まだまだ幼いマルベリーにとって、家族に会いたいという気持ちは人一倍強かった。
 今の育ての親にも感謝しているが、やはり知りたいと思うのは当然だろう。
 何せ、両親がいなければ自分が存在することすらなかったはずなのだから。
 今が幸せかどうかはわからないけれど、それでも、両親にどうしてもお礼が言いたかった。
 ……生んでくれて有難うと。
『そうだね……いるかもしれないね……』
 シルフィードは遠い目をしてパートナーの呟きに答えた。


 こうして、大勢の人間を見るのだけには抵抗を感じなくなってきた頃、シルフィードは課題その2をマルベリーに提案した。
『まだ完全に震えが止まったわけじゃないけど、だいぶ良くなってはきたし、今度は崖からじゃなくて同じ地面から見てみない? もちろん、あの場所じゃなくて、もっと人間が少ない所でね』
 あの崖の下を通る人間は数が多い。ちょうど街と街の間にあるため、往来が激しいのだ。
 同じ地点に行くとなるとまた緊張するだろうと考えた。
 今度は、人間から見られる可能性もあるのだから。
 はっとしたマルベリーがシルフィードを見る。自分でも気づかないうちに体が硬くなり、緊張してきたようだ。
『大丈夫大丈夫。あの街道へ行こうよ』


 フィラレル村から外へ出る方法のもう一つ、寂れた街道へ2人は向かっていた。
 迷いの森ほどではないが、木が多く茂っていて、道ももうほとんど獣道程度にしか残っていない。
 この村には訪れる人がほとんどいないのだ。
 マルベリーは前から不思議に思いながらもそれをよく知っていたため、街道を歩くのにも特に緊張した面持ちはなかった。
 それでもここを歩くのは初めてだ。きょろきょろと辺りを見まわしながら歩く。
 天気はいいというのに木々のせいで少し薄暗い。しかし迷いの森よりは幾分も歩きやすかった。
 動物の息吹もより身近に感じられた。
『着いたよ』
 シルフィードが街道の終わりを告げる。前をよく見ると細い獣道がレンガでできた道と繋がっているのが見えた。
 道幅は、人が行き交いできる程度。
 レンガの街道には、今は人間は一人もいない。マルベリーは薄暗い街道から出てみた。
 森を切り開いたようにできている道で、辺りに木々も多く茂っていたが、太陽の光が全身に当たってぽかぽかと心地よかった。
 とても歩きやすそうな道という感じがする。
『ここの向こうにも、小さな村があってね』
 シルフィードがマルベリーの右側を飛ぶ。そして左側に回り、
『それで、こっちに行くと、いつも行っていた崖の下の街道に出るの。もう少し行くとまた分かれ道があってね、そこからたくさんの人が通るのが見えるんだ』
 マルベリーはくるりと一回りをして辺りをよく眺めてみた。
「近くに大きな街があるの?」
『そう、それでたくさんの人達が通ってるんだけど、この場所は人が全然通らないから、慣れるにはぴったりだと思ったの』
 そして、また薄暗い街道へと入っていく。向かった先に、他よりは少し背の低い木が生えていた。
 それでも大人が手を伸ばしても届かないくらい高い。
『ここに座ってのんびりしながら人間を見ていようよ。前よりは距離が近づいたでしょ。もしかしたら気づく人もいるかもしれないね。……怖い?』
 マルベリーも木のある所まで行き、登って一番頑丈そうな枝に座ってみた。
「よくわからないけど、まだ大丈夫だと思う」


 こうしてまた3日ほど経った。
 街道を通る人は何人かいたが、みんな木の枝に座っている小さなエルフには気づかずに通り過ぎていった。
 初めは緊張して幹にしがみつきながら眺めていたマルベリーも、のんびり枝に座って足をぶらぶらさせながらと余裕が出てきているようだった。
「今日は天気が悪くなるかもしれないね」
 空を眺めながらシルフィードに伝える。
 風の精霊はパートナーの頬を撫でながら答えた。
『灰色の雲が少し出てきてるね。どうしようか……帰る?』
「うーん……。今日はやっておきたい調合もあるし、早めに帰った方がいいかもね」
 マルベリーはそう言い、また足をぶらぶらとさせた。
「でも、もうお昼過ぎになるけど、今日は一人も人間見てないよ」
 シルフィードはマルベリーから離れ、様子を見に行くことにした。
 森の木々の葉を揺らしながら少し行くと、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる人間を発見した。
 年は十代後半くらいだろうか。細長い剣を持った剣士のようだが、青い布のパンツに赤のジャケットというかなり薄着の格好だ。
 手には紙袋を持っていて、そこから何か食べ物を取り出して食べつつ歩いているようだ。
 シルフィードは少しその青年に近づいてみた。
『この人、なんだか見たことある……? なんだろう。雰囲気かな。懐かしい感じ』
 考え事をしながら向かって行ったからだろうか。少し近づきすぎて、青年の茶色の長い前髪が揺れた。
 急に風がまとわりついてきたため、青年は耳の横部分だけ伸ばしている髪の毛を押さえながら、風の吹いてきた方を見た。
 ジャケットと同じく赤いバンダナと、優しげなルビー色の瞳。
『……思い出した!』
 途端にシルフィードは踵を返して猛ダッシュする。
 いつの間にか、空は灰色が大部分を占め、ぽたぽたと水滴が落ち始めてきていた。
 低い木のある場所へ戻ったシルフィードは、平静を装いながらパートナーに話しかけた。
『雨、降ってきちゃったね。やむまでのんびり待ってようよ。もうすぐ人間も一人来るよ』
 マルベリーの肩に座って、きっかけを待つ。
 少し遅れて青年もやってきた。
 雨にはそんなに気にしていない様子だ。小雨ということもあり、構わずに歩いている。
 青年は背中に背負っていたリュックのポケットから小さな紙を出して何か見ていた。
 やがて、マルベリーのいる獣道の街道を見つけ、こちらの方へ歩いてきた。
「シル! こっちの方に来るよ!」
 マルベリーは小声でシルフィードに伝える。
 そして、木の幹にしっかりつかまって動かないようにした。
 次第に雨脚も強くなってきた。さすがに歩きにくくなったのか、青年はちょうど、幹にしっかりつかまって震えているエルフのいる木へと入ってきた。
 リュックから布を出して髪の毛を拭く。
 木もそこそこの高さがあるとはいえ、青年との差はせいぜい数メートルだ。
(近いよ……気づかれないで……!)
 マルベリーはすっかり体を硬くして縮こまっていた。
 顔面蒼白にならないだけでもかなりの進歩だ。今までの訓練の成果だろう。
 青年は再び袋からパンを取り出して食べている。
 しかし、いくら木の葉が雨から身を守ってくれているとはいえ、全ての水滴から逃れられるわけではない。
 青年の鼻にぽたっと一滴の水が落ちてきた。青年は何気なく上を見上げる。
 そこには、ただでさえ白い顔をもっと白くしながら小さくなって震えているエルフの少女がいた。
「おー」
 青年は人懐っこそうな顔をして雨宿りの先客を見つめる。
「珍しいなぁー。こんな所にエルフがいるなんて」
(……見つかっちゃった!)
 マルベリーは先程よりも更に緊張して木の幹につかまった。
 体の震えも最高潮に達する。
 青年の顔など見ている余裕は全く残っていなかった。

<< ・ >>