もう、動き出したの?
そうだよ。
そうしないと間に合わない。
遅らせることはできないの?
まだ早いよ。
臆病だなぁ。
怖いのかい?
確かにその気持ちはわからなくもないけど。
でも時間がないんだよ。
私は、まだ動きたくない。
でもね、それで手遅れになるのは嫌なんだよ。
だから、なんとか頑張って欲しいな。
少女は目を開け、辺りを眺めた。
白い雲が鮮やかな青空の中にほんの少しだけ散らばっている。いい天気だ。
春の暖かい陽射しがまっすぐ顔に当たって妙に心地良い。
すぐそばからは風で揺れている草花が囁いているのが聞こえてくる。
元の世界。
夢の中の空間から帰ってきたのだ。
少女ことマルベリー=フェンネルは腕を左右いっぱいに広げて伸びをしてから、よいしょっと小さく声を上げて起き上がった。
胸の辺りまで伸びた髪の毛が草花と一緒に風に揺れて踊っている。色は薄茶色なのだが太陽の光が当たっているため金色に輝いて見えていた。
空色をしたミニスカートのワンピース。その上に袖と裾に若草色の縁取りがついた白い薄布の上着を羽織っている。
肌の色は白い。どんなに日に当たっても焼けることはないようだ。
瞳の色は、鮮やかな翠緑色。
そして、髪の毛からは白くて長い耳が顔を出している。
背の高さは幼児くらい。大人の腰くらいの高さだ。
マルベリーは朝から夕方までずっとここの草原で居眠りをしていた。
「また……この夢かぁ……」
最近は同じような夢ばかり毎日見るようになった。
ほんの少し前までは夢すら全く見ていなかったというのに、ここ数ヶ月は毎日だ。
夢は無意識下のうちに感じる思いを如実に表すというが、今回の夢はそれとは違うような気がした。
誰かが呼びかけているような、仕組まれた夢だという感じがしてならない。
マルベリーはいつもこの夢を見るたびにその謎を解こうと試みるが、そもそも夢の中に出てくる風景を見たという記憶がない。人なども全く見覚えがなく、あまりにも手がかりが少なすぎるため何もできなくなってしまっていた。だからだろうか、ここ数日はイライラしてばかりなのだ。
「なんなの? もう。私に何かを伝えたいならこんなもどかしい方法なんてとらずに私の所に来て話せばいいじゃない! 何で私がこんなに考え込まなくちゃならないの? こんな変な夢を毎日見せるなんて、私に何をさせたいの? きちんと教えてくれなきゃわからないじゃないの!」
誰に話しているというわけでもなく、マルベリーは一人で呟いていた。
そんなむくれた顔をそよ風がそうっと撫でていく。マルベリーは優しい意思を感じて一旦怒りを心の中に閉じ込めた。
「シル……」
シルというのはシルフィードという風の精霊のことだ。
普通の人は存在を感じ取ることはできないが、マルベリーは精霊達と心を通わすことのできる特殊能力を持っている。
精霊にも数多くの種類がいるが、特に風の精霊を気に入っていた。シルフィードはその中でも特別仲が良く、いつもそばを飛んでいるのである。
マルベリーは微笑んだ。右手をかざすと風がその手に触れる。
すぐにその場所から手の平くらいの大きさの精霊が姿をあらわす。
見た目は人間を小さくしたような感じだが、全体的に半透明で精霊を通して後ろの風景が見える。マルベリーと同じく白い肌をしており、白布を羽織っている。背中からは薄い緑色の羽が生えていた。腰まで伸びている髪の毛も、羽と同じく緑色。
頭の中に声が直接響いてくる。
『いつも言ってるけど、あまり深く考え込まない方がいいよ。そう言って誰かもわからない人に怒ったって何も変わらないんだし』
いつもそばにいる風の精霊はパートナーの気持ちを誰よりも理解している。
マルベリーもそれはわかっているようで、シルフィードに対しては素直に対応する。
「大丈夫だよ。私がこうして声に出して言ってるってことは、そんなに心配はないってことだから。私が怖いのは何の言葉も言わずにただ黙っているだけの時だってシルもよくわかってるじゃない。さすがに毎日同じ夢を見ると精神的に嫌なものもあるけど、私はそんなには気にしてないよ」
ぱたぱたと左手を振り、笑顔で答える。
だが、夢のことについては深く考えずにはいられなかった。どう考えても不自然だからである。
それでも心配はさせたくないと考えた。根はいい子なのだ。
訝しげに周りをそよそよと飛ぶシルフィードをよそに両手を上げて再び寝転ぶ。両腕を曲げて組み、手を頭の下に入れて枕がわりにした。
微笑んでいた顔がふと真顔になる。
「それより私はあの村に帰る方が嫌だな」
どことなく空を見上げてぽつりと小さな声で呟いた。
マルベリーが住んでいるフィラレル村は、この草原から歩いて約半時くらいの位置にある。
この辺りは小高い丘になっていて村が一望できる。景色は抜群で、お気に入りの場所の一つになっていた。
その奥には大きな森の入口が見える。この森は別名迷いの森と言われ、一度入ったら二度と出て来られないと噂されている。
そのため、村に住んでいる人々はほとんどここを訪れることはない。なので邪魔者は現れず、とても居心地がいいのだ。
「ここでずっと居眠りしていたいね」
肘の先にちょこんと座ったシルフィードをちらりと見てそう言う。その口調には諦めの感情が伺えた。
マルベリーは、フィラレル村が嫌いなのだ。
正確に言えば、村ではなく違うものが嫌いなのだが……。どうにかして村から抜け出したいといつも考えていたのである。
『そういうわけにもいかないよ』
シルフィードはそのように感じる気持ちをよくわかっている。
しかし、帰るべき場所があることはとても幸運なことだ。
そう感じてもいるため、上手く言葉を発することはできないでいた。
マルベリーは、西の空を見た。そろそろ太陽が地平線の向こうへ沈んでしまいそうな気配だ。
近くの空は赤く染まっている。明日もおそらく晴れるだろう。
立ち上がり、もう一度村の方を見る。
そして、それからゆっくりと歩き出した。
その歩調はここの草原へ向かうものとは違い、重かった。
村に入ると、早速攻撃が始まる。
小石が飛んできて、マルベリーの手に当たった。痛みを感じながらもとっさに下を向く。相手と目を合わさないようにするために。
周りの人達はその様子を見て、からかい始めるのだ。
「また下向いた!」
「ただでさえチビなのに、もっとチビになるよね」
子供の間ではよくあることだ。
集団を作り、弱いものをいじめて楽しむ。それで悪気はないのだから残酷だ。
加害者はさぞかし楽しいだろうが、被害者から見れば大変迷惑な話だ。
しかも、加害者のほとんどは年下の子供ばかりである。
なぜマルベリーはこんなに理不尽ないじめを受けなくてはならないのか。それは、
「長い耳、変」
「エルフっていったってただのチビじゃないか」
……そう、マルベリーはエルフなのだ。
背の高さは幼児並みだが、本当の年齢は16歳。人間で言うとそろそろ大人の仲間入りをする頃だ。
だが、エルフは成長が遅いため、それでもまだまだ子供なのだ。人間の価値観で考えるとそれは異質なものとして映る。
みんなと違うからいじめているのだ。人間は一人でいることを嫌うから。
しかし原因はそれだけではない。
人間と違ってエルフは特殊能力を持っている。精霊と心を通わすことができることもそうだ。
今から百年ほど昔、歴史に残るほどの大きな戦争が起きた。
その時に使われた魔法が巨大すぎたため、特殊能力を持たない人間はその能力を羨み、そして恐れた。
そのため、法律で魔法使い狩りが奨励され、特殊能力を持つ者はことごとく排除された。
同じ人間なのに人間とは扱われず、罪をきせられ殺されてしまった。
それは同じように特殊能力を使うエルフなどの種族も対象となった。
今ではほとんど力を持つ者は残っていない。マルベリーは貴重なエルフの生き残りなのである。
この法律が禁止されたのは15年前。
今はそのような素振りを見せると罪になるため大っぴらに偏見の目を受けることはなくなったが、今でも人々の中には異種族を受け入れない風潮が見られている。
子供達のいじめもこのような社会状況からきているのだろう。
もちろん、全ての人がそうではない。マルベリーはその例外に当たる人も存在していることを知っていた。
小石がまた飛んできた。今度は顔に当たる。
左目の少し下だ。当たり所が悪かったらしく、赤い血がじわりと滲み出ていた。
マルベリーは痛みを堪えながらずっと歩き続けている。
相手にかまうと負けだと考えているからだ。そうすると相手は更に調子に乗る。
とにかく早く家に着きたいと考え、歩く速度を速める。
すぐに木造作りの家が近づいてきた。
一般の家と比べて少々大きいため、遠くからでもよく見える。
家が見えたのを確認すると全速力で走り出した。周りの子供達も走って追いかけてくる。
年は下でも体は大きいためすぐに追いつかれてしまうのだが、それを必死に振りほどき、なんとか家の扉の前に着く。
勢いよく扉を開ける。
「ただいまー」
……ふう。マルベリーは家に着くと大きなため息をついた。
家の中は扉を開けるとすぐに居間が見える造りになっていて、居間の向こうの小さな台所で母親のリュリカが料理をしているのが見えた。
鮮やかな長い黒髪は、料理をするには邪魔なため後ろで一つにまとめられている。
青いエプロンと質素な白のワンピースに身を包んだ30歳くらいの若い母親。
その耳は、マルベリーのように尖ってはいない。つまり、母親はエルフではなく人間ということになる。
リュリカはマルベリーの声を聞いて居間の方を見た。台所と居間は吹き抜けになっており、料理をしながら娘を見ることができるのだ。
「お帰り……あっ! また怪我をしてるじゃないの!」
ふと見た娘の左目の下にある傷を発見する。料理を作る手を止め、近づいた。
「ただいま。大袈裟だなぁ。このくらいならちょっと薬をつけておけば大丈夫なんだから」
マルベリーは台所の方を見る。調理中の料理の入っている鍋からとてもいいにおいがしてきた。思わず夕食の様子を思い浮かべてみてにやにやする。
「もう。今はまだ小さな傷ばかりですんでいるけど、もしかしたら大怪我にまで発展するかもしれないのよ。もっと気をつけなさい」
リュリカは膝を床につき、かがんで背の低い娘に目線を合わせた。
「大丈夫だって! あいつらにそんな大それたことをする勇気なんてないよ。 いつも集団でしか行動できないんだからさ」
マルベリーには母親が思っているような危機感は全くないようだ。
もうこのことが一種の習慣になっているからかもしれない。
それともいじめをする子供達に対してある意味見下しているような部分もあるのだろうか。
「やっぱり家から外に出るのはやめておいた方がいいんじゃないの?」
元気に笑う娘に対してリュリカは真面目な表情を崩さない。
しかしマルベリーは相変わらずの表情で、
「私が家に閉じこもってるのって、なんか変じゃない? 私は別に悪いこともしてないし、自分のしたいことをしていたいんだよ」
母親からの説得も全く効かない。いつものことなのだ。
いくら言っても自分の考えを変えない。そんな頑固な面も小さなエルフにはあった。
自由奔放に、自分の好きなことをしていたいと単純に思うのである。
リュリカはそんな娘の性格をよくわかっているため、顔に諦めの表情を浮かべる。
「そこまで言うなら私はそれにまかせるけど、無理だけはするんじゃないよ?」
そう言って立ち上がり、また台所へ戻って作りかけの料理に手をかけた。
「はーい」
マルベリーはとりあえず母親の忠告に返事をして、シルフィードを伴い自分の部屋へ行くことにした。
部屋は、家の屋根裏にある。台所の左隣に位置する廊下の奥のはしごを登った先だ。
廊下に足を踏み入れた時、ほぼ中央にある扉から一人の男性が出てきた。
見かけは30代後半くらいに見えるのだが、髪の毛はこの年ではまだ早すぎる白髪が数多くあり黒と白が入り乱れているといった様子だ。
真っ白の白衣を着て、眼鏡をかけている、いかにも研究者といった風貌である。身長はそんなに高くはない。マルベリーよりはさすがに高いが、リュリカよりは頭半分くらい低いのだ。耳は丸く、エルフではないことがわかる。
この男性は、マルベリーの父親、コンフリーである。
薬師で、扉の向こうにある薬の調合室から出てきたところだった。
ちなみに、マルベリーも父親の指導を受けて薬の調合をすることができるようになっていた。
薬師熟練者にしてみるとまだまだ半人前だそうだが、それにしては成長が早かった。
短期間でたいていの薬草ならほぼ失敗なく調合ができるようになっていたからだ。
コンフリーは、娘の顔を見て顔をしかめた。
「また怪我をしてきたのか。きちんと後で手当てをしておくんだぞ。それにしても、ここの人々は全く懲りないな」
呆れ顔で呟く。何も言わなくても怪我の原因が何なのかすぐにわかったからだ。
「それから、いつも眼鏡をかけているようにと言っているだろう? ますます目が悪くなっていくぞ」
言葉はあまりよくなくても、目は優しい。
娘の頭を軽く撫でてから、居間の方に向かった。おそらく夕食を食べに行くのだろう。
マルベリーの目は悪いのだ。コンフリーの言う通り、もう眼鏡がないと生活していくにはつらいという程度に。
しかし眼鏡をかけるのは極力避けていた。
眼鏡は嫌いではない。むしろ好きな方だ。それに、やはり視界ははっきりした方がいい。
それなのに眼鏡をかけないのは、外に出歩くからだ。
外に行くということはその分障害物も増えるということで余計に眼鏡をかけなくてはならないのだが、それには問題があった。
村の子供達だ。
眼鏡をかけて歩いていると、面白がってどんなことをされるのかわからない。万が一壊れたということになると、作り直すのに数多くの月日がかかってしまう。
ちなみに、マルベリーの眼鏡は父親のお手製だった。
ただ歩くだけなら、眼鏡がなくても平気だ。しかし、調合をする時など、細かい作業をする時には眼鏡がないと致命的だった。
なので、眼鏡は家にいる時だけかけるようにしているのである。
マルベリーは、廊下の奥にあるはしごを登った。
屋根裏はそこそこ広い。
天井が少々低めで、普通の人なら手をあげれば天井につくくらいの高さだが、身長の低い部屋の所有者には全く気にはならなかった。
正面に小さな窓があり、そのそばに小さな机と本棚が置いてある。
机の上にのっている大きなレンズの眼鏡を手に取り、かけた。途端に視界が良くなり、今までぼんやりとしていた様々な物の輪郭がはっきりしてくる。
「やっぱりこっちの方がいいねぇ」
眼鏡と同じように机の上に乗っている小さな手鏡を持ち、自分の顔を眺めてみる。
小さな顔の大部分を占める大きな眼鏡はバランスが悪いのだが、不思議とよく似合っていた。
本人もまんざらではないようで、鏡に向かって軽く笑ったりしてみる。
しばらくそうやって鏡を見ながら黙っていたが、ふと何かを思いついたように口を開いた。
「あ、そうだ。傷の手当てをしなくちゃね」
そう言って机の端に乗っている手の平サイズの小さな小瓶を手に取った。
瓶のふたを開け、かたわらに置いてあったスプーンで中のものを取り出す。
中に入っているものの色は薄い緑色。ゲル状になっているそれは、自分で調合した傷薬用の薬草だった。
机の下にある引き出しを開け、そこから清潔なガーゼを取り出す。
スプーンで取り出した傷薬をガーゼにのせ、それを左目の下の顔の傷につけた。
少々しみるが、たいした痛みではない。これで一応傷の手当ては終了。
しかしマルベリーは、傷の手当てが終わってからでもしばらく鏡から目を離そうとはしなかった。
ただ黙って鏡を見入っている。
「シル、私、決めたよ」
そう言って机の上に腰を下ろしているパートナーの顔を見る。
『何を決めたっていうの?』
話しかけられた風の精霊はこの発言の意図になんとなく気づいていた。それでも表情には表さないように気を遣う。
「やっぱり、旅に出たいなってことだよ」
先程まで笑顔を見せていたマルベリーが真剣な面持ちでシルフィードの目を見つめている。
発言は唐突だったが、もうその考えを変えることはないという決意が現れているようだった。
『どうして? 旅は諦めるんじゃなかったの?』
シルフィードの方は落ち着き払ったマルベリーとは反対に動揺していた。
以前から村を出て旅をしたいと言われ続けていたが、なんとか説得をして引き止めていたのだ。
まだ旅をするということに賛成はしていない。そんな相手の感情を感じながら、それでも言葉を続ける。
「だって、鏡を見るたびに思うんだもん。『あぁ、私とお父さん、お母さんは違うな』って。大切な両親で、もちろん大好きだけど、いつも思ってたんだ」
マルベリーは、窓の外の夕闇に覆われつつある村の景色を遠い目で見ながら呟いた。
「私の本当のお父さんとお母さんに会いたいなって」
コンフリーとリュリカの本当の子供ではない。それはエルフと人間という種族の差から見て歴然としたものだ。
それに加えて、両親に拾われた6歳以前の記憶が全くないのである。
10年前に発見されたのは森の奥深くで、まわりには誰も人はいなかったらしい。
つまり、過去について知っている人の手がかりは全くないということになる。
以前から自分について知りたいと思っていた。
しかも最近は妙な夢をほぼ毎日見るようになっている。この夢が自分の過去に関わりがあるのではないかと考えた。
そうでもないとこんなに不思議なことはありえないと思う。
誰かが自分を呼んでいるのだ。
「シルは私が旅に出るのを反対しているみたいだけど、私の考えは一番わかってくれているはずだよ。どれだけ私が旅に出たいか、自分のことについて知りたいか、シルならわかってくれてるよね? だから、今度こそは旅に出るのを止めないでよ」
顔を下げる。肩より少し長めの髪の毛が顔を隠した。表情がよく見えない。
「今のまま暮らしていくのは、不安なんだよ」
言葉は続く。
「私は一体何なのか、知りたいんだよ」
そして、マルベリーは顔を上げた。シルフィードを再び見つめるそのエメラルドの瞳には、うっすらと涙が滲んでいる。
気づかないうちに両手のこぶしをしっかりと握り締めている。
「私は、本当はどんな人なの? 自分でももうわからないよ。だから私を知っている人を探すしかないんだ」
『……』
シルフィードは、むき出しの感情を真正面にに受けて言葉を発することができないでいた。
今までも旅に出たいと駄々をこねたことは数多くあったけれども、こういう表情を見るのは初めてだった。
マルベリーの考えはよくわかっていた。
普段は明るく努めていても、心底ではいい知れない不安を抱えていることも。いつか自分の説得も聞かずに村を飛び出していくだろうということも。
そして、もしその時が来たら自分もついていこうと決めていた。
それでも、まだ旅をさせるわけにはいかなかったのだ。
しかし、もうそれもマルベリーの我慢が持たなくなったところで終了だ。
その時が近いということには気がついていた。それはちょうど謎の夢を見るようになってからだ。
自分の生き方は自分で見つけ出してほしいと考えている。
しかし心の奥でそれを止めようとしている自分がいる。
この二つの相反する思いを抱えてどうすることもできないでいたのだった。
シルフィードに思いの丈をぶつけて精神的に疲れてしまったマルベリーは、夕食も食べずに部屋の隅にあるベッドに横になってしまった。
すぐそばにある小さな棚の上に、リュリカが持ってきた夕食が乗っている。目が覚めたら食べると思ったのだろう。
マルベリーはベッドで丸まって眠っていた。こうして見るとますます小さく見える。それこそすぐ壊れてしまいそうなくらいに。
しかし、その小さな身体からの無限の可能性も感じられる。
涙混じりの寝顔を見ながら、シルフィードは呟いていた。
『そろそろだと思ってた。でも私は、怖かったのかもしれない。失ってしまうのが怖かったのかもしれない。あの時のように……』
呟きは温かい風となってマルベリーの頬を撫でていく。
『あんな風にはならないかもしれないのに。私、何を怖がっていたんだろう。全てはこの子の意志に任せるってあの時決めたのに。それに……今しかない』
よく考えた末、シルフィードは旅を認めることにした。
今のままでずっと立ち止まっていても何の解決にもならない。
今の何の変化もない日を繰り返す毎日は、とても安心できるものだけど、本人がそこから抜け出したいと考えているのにそれを止める権利はなかった。
これからは今までとは比べ物にならないくらいの苦労が続いていくのだ。
マルベリーがそれに耐えられるかはわからないが、それを助けていこう。そういう決意を固めた。
あの時と同じようにはしたくないから。
あの時と同じ悲しみは味わいたくないから。
この子だけは私が守らなければと。
『私、結局は流されていくだけなんだね』
もう一度パートナーの寝顔を眺める。
いつのまにか辺りは真っ暗になり、村のあちこちでも灯された明かりが消されていくような時間になっていた。