サリュが記憶を持つようになったのは、もう100年以上も前。
この場合も同じく、このシアンスの神殿で前に知識を持っていた人から譲り受けたという。
サリュもフィエルの妹であるリエルと同じように、シアンスの知識についての止まらない好奇心などのために手に入れたいと考えていた。
あまりにも幼く単純なその動機に、以前の知識を持っていた者は呆れ返ったけれど、反対にそうすることでどうなるか期待をしたいとのことで許しを得た。
知識が得られると聞いて喜び、特に説明も聞かずに受け継いだが、そのことの重大さに気がついたのは、儀式が全て済んでからだった……。
「あの時の俺は、ただ目の前にあるものしか見えていなかったんだ。その後にどうなるかなんて全然考えてなんていなかった。だからこそ、しっかりと聞いてもらいたいんだ」
昔のことを思い出しているのだろうか、少々上を見上げて苦笑しているサリュは、体格はフィエルよりももちろん大きいが、なんだか儚かった。
「手に入れてから、何を思ったの?」
フィエルも真剣な面持ちでサリュの話を聞く。
もちろんここでの話はどの本を読んでも載っているものではない。一言一言逃すまいと耳を澄ませる。
「俺はね、はじめ、知識は分け与えるものだと思っていたんだ。だけど実際は違った。俺が受け継ぐと言っているのは、そのまま。知識を持っている人から持っていない人へとまるごと明け渡すことなんだよ」
サリュの言葉をしっかり胸に焼きつけておいてから、一つの質問をする。
「そうしたら、前に知識を持っていた人はどうなるの?」
一瞬ちらりとフィエルを見てから目線を泳がせ、小さなため息をつくサリュ。
「もちろん、今まで持っていた知識はまるごとなくなる。……そして、それと同時にこの世の中にいられなくなってしまうんだ」
「……いなくなる? どうして?」
ただ頭の中の知識を渡すだけなのに、どうして生きていることすらできなくなってしまうのだろうか。
「この世の中の全ての知識だから、もちろん人間の頭の中にすんなり入るほどの量じゃない。だから、精神だけの状態になって知識を受け継ぎ、生きていくんだ。そうしないと納まらないんだよ」
「うん」
フィエルは頷いて続きの言葉を促す。
「知識を受け継ぎ、精神体となった時点で身体の中の時間が止まる。そして、知識を持っている限り、俺は生き続けることができる。……だけど、本体の方の身体がそんなに長い時間持たないんだよ」
知識を受け継ぐことによって、その膨大な量を吸収するために人間としての身体から精神体だけ分離されてしまうのだ。
そして、精神体となった者は知識がずっとある限り永久的に生きていられるが、もちろん体の方は老化していき、寿命を迎えると心臓も止まる。
「今の俺は、精神体だけの不完全な姿ってわけ」
「……そうしたら、サリュの身体は……」
フィエルは両手を口の辺りに持って行きつつ話を聞いている。想像以上のことで驚愕し、反対に感情をなくしているように見えた。
「そう。もうないよ。……何十年前だったかな……。とにかく、自分で自分を埋葬するというのは妙だったな」
この世の全ての知識を持ち、同時に力も兼ね備えているサリュには、本体の身体を朽ちることなく永久保存することも可能だった。
実際、サリュに知識を明け渡した者は、そうして再び人間への生活へと戻っていった。
だが、サリュはそうはしなかった。
もう既に長い年月を生きているのだ。現代は時代も違うし人々の価値観も違う。その後も人間として生きていくつもりは毛頭なかった。
「つまり、今の俺の命の源は、この頭の中の知識ってわけ。これがなくなったら俺は精神体を保っていることができなくなる」
「知識がなくなったら……消えてしまうってこと?」
精神体となっても人間と同じように物にも触ることができるし食べ物も食べられる。
しかし、いくら栄養を摂ってもそれは直接エネルギーの素にはならない。
「そうだね。……これで俺の言っていることがわかったかい? 俺が知識を明け渡すのは生涯でたった一人だけだと」
「……うん。それと一緒に、とっても慎重にしないといけないんだね」
知識を明け渡した後は消えてしまうため、受け継いだ者がそれを使ってどのようなことをするのか見届けることができないのだ。
もちろん強大過ぎる力なため悪用されるのは確実に防がなければならない。
「……それで、どうしてここへ来られたのが私だったの? 私以外は神殿の奥へ入れるつもりはなかったということでしょう?」
フィエルにはここが一番わからない点だった。
自分はどう考えても一般的な僧侶の血筋だ。何か優れているわけでもないし、今に満足しているため知識に執着もしていない。
「たぶん無欲なところがいいんだと思う。フィエルなら災いを生み出すようなことはしないと思える。……俺はね、ずっとこのまま知識は俺の中に入れておこうと思っていたんだ。そして、ここで生きていこうと」
お茶が冷めてしまったため、もう一度ポットのお湯を沸かして入れ直す。
ゆっくりとした動作でカップを口に運び、置いてからサリュはフィエルの方をまっすぐに見つめた。
「何よりも、俺がフィエルに会いたかった。滲み出る人柄というか……。他人のためにでも労苦をいとわず働くことのできるところとか、美しいものを素直にきれいと言えるところとか……」
フィエルもお茶を飲みながらサリュの話を聞く。
顔が自然と赤くなっているのは熱いお湯のためだけではないだろう。
「ずっと……見ていた。本当に子供の頃から。ただ何気なく世界のあちこちを見ているうちにふと目にとまって。その時に惹かれてから成長していくのを見てきた。
はじめはどうしてなのか自分でもよくわからなかったけど、今こうして目の前にいるのを見ていると、俺は間違っていなかったと思うよ」
サファイアブルーの瞳がフィエルを捉える。
吸い込まれそうな深い青に心の中まで見透かされそうになって、思わず両手で顔を覆ってしまった。
「本当は、もう少し待つつもりだった。せめて20歳になるくらいまでは。その時は今よりも冷静に俺の話を聞いてもらえたかと思う。実際15歳の時にここに来ていた時はかなり迷った末に諦めた。だけど、今回は待てなかったんだ」
フィエルは手で顔を覆ったまま話を聞いている。
「ただ見ているだけじゃ足りなくなった。どんどん膨らんで来る思いに焦ったよ。俺はずっとここで一人で生きていくつもりだったから、他人を求めてはいけないはずだったのに」
目の前の少女は答えない。
それを無言の促しと解釈し、サリュは話を続ける。
「それから俺は、今まで全然平気だった孤独に、堪えられなくなった。……これは完全に俺のわがままだ。そして、これから俺はフィエルにもっと身勝手なことを頼まなければならない」
フィエルの両手がゆっくりと顔からよけられる。
目線の先にはサリュがいる。
2人はほんの一瞬、見つめ合った。
「はじめから意思ははっきりしていたけれど、敢えて言わせてもらう。……俺は、フィエルにこの知識を受け継いでもらいたいんだ」
なんとなく想像はしていたものの、できることなら聞きたくなかった台詞だった。
「……私がもし手に入れたとしたら、あなたは……」
知識を明け渡すことは、すなわちこの世からの消滅を指す。サリュはフィエルに自分の存在を消してくれといっているようなものだ。
「そんなこと、私にできるはず……ないじゃない……」
ずっと真顔で話を聞いていたフィエルの顔が徐々に歪み、瞳には涙が浮かんできていた。
「確かに、俺の身勝手のせいでフィエルに大変な思いをさせるってことはわかる。知識を受け継ぐことによって、数多くの別れを味わうことになるから。日常生活への別れ、人間としての生活からの別れ、家族とも別れなければならないかもしれない。それと、一応加わることができるのなら、俺との別れも」
サリュもフィエルがこの話を聞いてどのような反応をするか充分に考えて出した結論だった。
だが、実際にそれを目の当たりにすると胸が痛む。
「別れ……」
焦点の合わない眼でフィエルが呟く。
頭の中に思い浮かんだもの。それは、とてもたくさんのものがあったが、一番はじめに思い浮かんだのは、やはり妹であるリエルだった。
必死になって、何年間もシアンスについて調べていたリエル。
それでも知識を手に入れることはできないのだということは、先程から聴いていたサリュからの説明で理解できた。
だからこそ、自分がこんな状態でいていいのかと思う。
リエルはどう思うだろうか。どんなに手を伸ばしても手に入れることができなかったものを、姉が手にしているとわかったとき。
裏切られたとは思われないだろうか。
「寂しいなぁ……」
フィエルはまた無意識に呟く。
自分が大切な人達と別れなければいけなくなるということにも堪えられそうになかった。
そんな様子のフィエルを見つつ、サリュが話しかける。
「……さっき、フィエルがここに来る前に、礼拝堂の像に水滴がついているのを見たよね。フィエルの気を引きたいためにとっさに作ったものだったけど、あれは俺の涙なんだ。孤独でいることが苦しいと思うようになってしまって泣いている俺だったんだよ」
フィエルは意識を元に戻しつつ、先程の様子を思い出してみた。
礼拝堂できらりと輝いた光。創造神と呼ばれている人物の像についていた雨粒の涙。
「永遠と呼ばれる時を過ごすのだと思っていた。でも、俺はこの悲しみを知ってしまった。このまままた長い時を生きることは、俺にはできない。ここから開放してもらいたい。俺の考えを理解して、叶えてくれるのはフィエルしかいない。他に頼れる人を探す気もない」
フィエルの瞳からとうとう涙があふれて零れ落ちる。
サリュからの思い。リエルへの思い。みんなへの思い。
この重大な選択に、プレッシャーに、フィエルの心は限界だと訴えかけていた。
サリュは椅子から立ち上がって近づき、手でその涙を拭う。
「……ごめん。つらい思いをさせて。ただ、俺の中に虚無感が大きく広がるのをどうしても止めることができない。この生き方を終わりにしたいと思っても、自分で結論を出すことすらできないんだ」
サリュからの願いは一方的だ。だが、それを無下に切り捨てることは、フィエルの性格上どうしてもできなかった。
どうしたらいいのか、落ち着かない頭で必死に考える。
サリュから知識を切り離すことはできない。知識がなくなったら消えてしまうから。
そして、リエルには、知識については諦めてもらうしかない。知識はフィエルにしか受け継がれる資格がないから。
……だが、これを実現させることはできるのだろうか……?
「……どうして、消えたいと思うの……? 一人でいるのがつらいというなら、神殿の外へ出てみるとか……」
肩を揺らしながら少しずつ訴えるフィエルの頭をサリュはそっと撫でる。
「俺は争いの元だ。多くの人々がここへ訪れているように、みんな知識を欲しがっている。……それに、こんな知識なんてなくても人々は充分生きていくことができるんだ。手に入れて初めて、これは余計なものだと思った。知識があったってできないことは数多くあるとわかった」
「ここから出られないんだったら……私も、ここにいるから」
フィエルを撫でていたサリュの手が止まる。
フィエルは流れる涙を自分で拭おうともせず、ただまっすぐにサリュを見つめていた。
目の回りを真っ赤にした醜い表情のはずなのにサリュにはとてもきれいなものに感じ、思わず抱きしめそうになるのを必死に堪えた。
「フィエル……?」
「寂しいって苦しむのはやめてよ……。私で良ければ、ここにいるから……」
フィエルは、会ってからまだ数時間しか経っていないというのに、目の前の少年に惹かれていくのを止めることができなかった。
……助けてあげたい。そう感じる。
だからこそ、少年が消えてしまうという事実がフィエルをかたくなにする。
(……消えるなんて嫌。いなくなるなんて嫌)
今は知識を受け継ぐという問題よりもこちらの方が重要だった。
それに、リエル達とも離れたくない。そばにいられなくなるというのもそうだが、心が離れてしまうかもしれないと思うととても堪えられなかった。
「知識なんていらない。そんなの、なくていいよ……。だって、サリュが消えちゃうんだもん……。……嫌だよ……」
サリュの表情が柔らかいものに変わる。
「驚いたよ……。ここまで言ってくれるとは思わなかった。正直言って思いっきり嬉しい」
そしてまたフィエルの頭に手を乗せ、今度は軽くぽんぽんと叩いた。
「でも、それはできない。フィエルがそばにいてくれるのは俺にとって至上の喜びだけど、それは永遠ではないから。俺はこのままでもフィエルは年を取っていくし、いつかは別れる時が来る。幸せの後に、不幸を味わいたくない」
サリュは今頃になって本体である身体を保存しておかなかったことを後悔していた。
フィエルと一緒であれば知らない時代も生きていける自信があるのに。
「俺にとっては、フィエルにだけ俺がいたということを憶えていてもらえればそれでいいんだ。……お願いだ。俺をこの幸せな状態のまま、消してくれないか」
フィエルはもう自分でもどうすることもできずにテーブルに突っ伏してしまう。
涙はとめどなくあふれてくる。
「私ね、サリュとも一緒にいたいし、リエル達とも一緒にいたいの。私が知識を受け継ぐことによって、みんながなくなっちゃいそうで怖いの」
サリュは優しくフィエルの頭を撫で続ける。
「確かに、リエルに知識を受け継いでもらうのがいいのかもしれない。だけど、あの子は昔の俺を想像させる。俺みたいな人は、知識を受け継いではいけないんだよ」
フィエルはテーブルの上で肩を揺らし、必死に泣き声をもらさないようにしている。
「大丈夫。俺は消えても、ずっとフィエルのそばにいるから。それと、リエルはそんなことじゃフィエルからは離れない。それはフィエルだってよくわかっているだろう?」
そのサリュの言葉を聞き……ふと、妹ならどうするだろうかと思った。
もし、今この状態にいるのがリエルだったとしたら。フィエルは2年前の妹の台詞を思い出していた。
『私にとって魔法は憧れだけど、僧侶だらけのこの街で、魔法でだって人をたっくさん助けられるんだってことがわかればいいなって思ってるんだ。いつも神父さんが救いを求める人達を助けてあげてるでしょ? 私はそれを魔法でやりたい。力は違うけど、これはフィエルと同じだよ。目の前に自分の力を必要としている人がいるんだったら、そのために頑張らないとね』
一時期どうしても神殿の奥への道が見つからないと諦めかけたことがある。
だがその後、妹はこの台詞を掲げて再び起き上がったのだった。
……そうだ。フィエルは自分を恥じた。
リエルはそんなことでは恨み言は決して言わない。
知識を追い求めているのも、それは、助けを求めるみんなのため。
……リエルは、フィエルが今まで見てきたどんな人よりも、優しい子なのだ。
妹の言葉をもう一度反芻してみる。
……自分の力を必要としている人。それはサリュもそうだ。サリュは一人では天へ逝くこともできない。
しかし、他の望みならともかく、今回の救いはフィエルにとってもつらい選択だった。
何しろ、サリュはフィエルにとってもう既に大切な人となっているから。
だが、自分にとって大切な人の願いだからこそ、叶えるべきなのだろう。
自分の感情のせいで止めることなんてできるのだろうか。
それによってまたサリュが苦しむことになってしまう。
(……きっと、リエルもそう言ってくれるよね……?)
フィエルは突っ伏していた状態から起き上がり、椅子に座ったまま上を向いてサリュをじっと見る。
荷物からハンカチを取り出して顔を拭き、そして微笑んだ。
「……わかりました。私はこれから、あなたへの想いを糧にして生きていきます」
「……ありがとう」
フィエルも立ち上がり、サリュから差し出された手を取る。その手は、精神体でできているはずなのに、なぜか温かかった。
「私は、知識を手に入れたとしても、ここにずっと閉じこもっているつもりはないの。私がしっかりしていれば外でもなんとかなると思う。それに、リエルのことも心配だし。知識は渡せないけど、本来の目的である魔法使いになる方法は見つかるかもしれないでしょ?」
心の奥の悲しみを押し隠し、笑顔でサリュを見つめながら今後のことを話すフィエル。
「さっきサリュは知識は余計なものって言ってたけど、そんなこともないと思うの。そこから、いろんな人達の役に立つことを考えていければなって」
「ああ。その辺りは任せるよ。……人と違う生き方をするのは並大抵の苦労ではすまないと思うけど。俺はできなかったこともフィエルなら大丈夫だって思ってるから」
サリュもやはり名残惜しい思いはある。長い間待ってようやく会うことのできた人だ。
一瞬フィエルに手を伸ばしかけ、だが、すぐに引っ込める。ここでその決断を揺るがすわけにはいかなかった。
「うん、頑張るよ。だってサリュのいのちをもらうんだもん。絶対に無駄にはしたくないんだ……」
そうして、知識を受け継ぐ儀式が始まった。
部屋のベッドに寝かせられたフィエルは、最後の最後まで姿を目に焼き付けようと、じっと目の前の愛しい人を見つめていた。
再び涙があふれ、瞳を潤ませているその様子を見て、サリュはなんともやるせない気持ちになる。
このままの状態でずっといられたらと思う。しかし、それは叶わぬこと。
最後に思いっきり抱きしめたいとも思う。だが、そうしてしまうともう2度とフィエルを手放せなくなる。
心の中に芽生えつつあるどす黒い思いを必死に取り除き、自分を見つめる少女ににこやかに微笑みかけた。
フィエルも涙を拭い、サリュに対して最後の微笑みを見せた。
「サリュと私は、これからもずっと一緒だよね」
そして、目を閉じる。
少し経ってから、サリュが何やら呪文のような言葉を紡ぎ始めたのがわかった。真っ暗な視界の中でサリュの耳触りのいい声が頭の中に響く。
これからフィエルにとって未知の生活が始まる。そのことについて不安がないはずはないが、今はそれを極力考えないようにした。
額にサリュの手が置かれる。それだけでその不安が少し掻き消えたような気がした。
そうこうしているうちに、眠りにつくのと同じようなぼんやりとした感覚が迫ってくる。
(……人間としての私、さよなら。……そしてサリュ……。私だけは絶対に忘れないからね……)
最後にフィエルが考えたことは、この2つだった。
そして、額に触れている手の他に何かが顔に触れたような気がしたが、それに気づくこともなくフィエルの意識は深いところへと落ちていった。
フィエルが目を覚ましたのは、それからどのくらい経った後だっただろう。
ベッドから起き上がってふと視線を下にやると、そこで横になっている自分自身を発見した。
今まで鏡ごしでしか見たことのなかった自分を見下ろしているというのはなんだか妙な感じがする。
「……サリュ?」
先程まで一緒にいた少年を視界の中に探す。
そうして意識がはっきりしてくるのと同時に、頭の中に大量の情報が流れてくる。頭痛がして、フィエルはしゃがんでうずくまりそれに堪えた。
……すぐに慣れるよ。
儀式の直前にサリュは言っていたが、さすがにこの世の中全ての知識だ。情報量が半端ではない。
それがふと自分の思うことにも反応して様々な情報が流れてくる。
痛みが少し落ち着いてきた頃、立ち上がって部屋中を探し回った。
フィエルにとって短時間で心の中の大半を占めるようになった少年の姿は、ないとはわかっていながらも探さずにはいられなかった。
それを完全に頭の中でも理解できるようになった時、フィエルはもう自分の感情に正直になろうと思った。
今だけは。誰も入ってくることのできない場所で、今だけは……。
想いを捧げることのできない一人の少年に向かって。
「……ううっ……。ひっく……」
涙が枯れて出てこなくなるまで、ずっと、泣いていようと思った。
胸がつぶれそうになる。
(……私、弱いね……早速泣いちゃってるよ。でも、これから少しでも強くなれるように、頑張るからね)
目を閉じ、胸に手を当て心の中にいる少年へ語りかける。
その少年サリュは、心の中でずっとフィエルに微笑みかけていた……。
時間が経ち、まだ感情の整理はついてはいなかったが、置いてきた妹のことが気になって元の世界へと戻ってきた。
リエルは神殿の礼拝堂で熱心に祈りを捧げていた。
そして、近づいてくる気配に立ち上がって振り返る。
「……フィエル! ……よかったぁ無事で…。心配したんだよ……。もう何時間も戻ってこないんだもん」
辺りを見渡してみると、茜色の光が窓から射し込んできており、もう夕方なのかと理解することができた。
「……フィエル? 顔が……どうしたの?」
泣きはらした顔を発見して心配そうに覗き込む妹。
その姿がとても可愛らしくて、空虚な思いが少し癒された。
「ごめんね、リエル……。もう少し落ち着いたらきちんと言うから……。だから、私を許してね……」
リエルを強く抱きしめ、まだ涙の粒を零すフィエル。
妹はその背中を優しく撫で続けていた……。
奥へ辿り着いた者は、この世の全ての知識を身につけることができると伝えられている神殿、シアンス。
そのエントランスに描かれている天井画は、羽の生えた天使の少年が、神々しく輝いている聖母を優しく包み込んでいる様子が描かれていた。
その神殿の守人は、闇へと向かうことを嫌う。
光の射す方へ。
その眩しさに目を細めることなく、
心の煌きのままに進むことができるのならば。
未知の世界へ辿り着くことができるだろう。
そこでの決断によっては、
望みを手に入れることができるだろう。
ただし、そのためには幾つかの犠牲が必要となる。
幾つかの別れを、味わうことになる……。