坂の途中にあるいつもの場所。私の定位置。
そこでゆったりと呆けていると、ふと光の加減で頂上が輝いて見えることがある。
その時に坂を登りきったら、その先にはどのような光景が広がっているのだろうか。
急すぎるというわけではないけれど、一気に登りきるのはつらいというくらいの坂道。
その途中にある小さなよろず屋が、私の今の家であり、職場でもあった。
ここの本来の持ち主は祖母で、私が生まれるずいぶん前から営業していたらしいから、もう何年続いているのかはさっぱりわからない。
遠くから見てもよくわかるくらい古ぼけた佇まいで、私の身体が大きくなるごとにどんどん古く小さくなっている。
けれど、見た目とは違い中の温かさはずっと変わらず、私は小さな頃からこの店が大好きだった。いつも暇を見ては実家を抜け出して遊びに行き、祖母と一緒に帳場に座り、時々お菓子をつまみ食いさせてもらいながらお客様の相手をしていたのだ。
そのため、祖母が体調を崩してしまい店が続けられなくなった時、私が店を継ぐと言ったのもごく自然な流れで。
店を閉めることを大変渋っていた祖母は、その言葉にとても喜んでくれた。
私は店に住み込むことになり、祖母は私の実家で母親に看てもらうことになった。
初めて一人で店番をすることになった日、祖母から言われた言葉に、私もとても感激してしまったのを覚えている。
繁盛はしていないけれど、頼りにしてくれているお客様もいるから、そういった人がいる限りずっと店を続けていきたい。だから、あなたが店を継ぐって言ってくれた時、本当に嬉しかったんだよと。
そうしてここで店番をするようになってから、早くも3ヶ月が過ぎた。
夏が過ぎ、だんだんと朝晩が冷え込むような季節になってきていた。
元々実家よりも店にいる時間の方が長かったかもしれないというくらいだったため、店の経営に不便を感じることはなかった。
小さな頃から祖母が帳簿をつけたり品物の仕入れをしたりする様子はよく見てきたし、3年前の、私が15歳の時からは何度かその作業を手伝ったりもしていたためだ。
作業の点検をしてくれる人がいないというだけで注意深くやる必要があったくらいで、あとは仕入れの量や季節の品物などで不安な点があれば実家に戻って祖母に聞けばそれで済んだ。
古い家のため電灯が少なく、夜は多少怖い面もあったが、それもすぐに慣れた。
以前店はそのまま続けて、夜などは実家で過ごしたらと家族で相談したことがあったが、その時も祖母は夜に急に何か必要になったお客様が来たら困るだろうからと譲らなかった。
こうして自分一人で店で過ごすようになって初めて、祖母はこんなに寒くて心細い夜をずっと越えてきたんだなぁと思った。
私は店で過ごす時間は長かったけれど、泊まったことはなかったから。
祖父が亡くなってからずっとこうだったんだなぁと思った時は少し涙も出た。
そして、私は更に店の経営を頑張ろうと思ったのだった。
とはいえ、祖母が今まで作ってきたこの店の雰囲気を変えることはしたくない。
やったことといえばすきま風を慣れない手つきで塞いだり、あとは品物の整頓を私が手に取りやすいようにしたくらいだった。
そんな状態だったし、お客様もひっきりなしに来るわけではなかったから、必要なことを先にやってしまえばあとは暇だった。
始めは無意味に掃除ばかりしていたこともあったけれど、私は昔から祖母としていたように帳場に座って机に寄りかかって坂道を歩く人達を眺めることが好きだった。
この道は大きい通りではないけれど、歩いていけばやがて大きな道に出る。
人の行き来は田舎町の割にはけっこう多いんじゃないかと私は思っていた。
急いでいるのか体中に汗をかきながら坂道を登って行く人。
風に任せて勢いで坂道を駆けて下って行く人。
店をちらりとだけ見て通り過ぎて行く人。
店に気づかず急ぎ足で歩いて行く人。
休憩をする人。買い物をしてくれる人。差し入れをしてくれる人。世間話をする人。様々。
そのような人々を見ているのが好きだった。
私のこうした人生の他にみんなそれぞれの道があり、それぞれの速度で歩いて行く。
そういった様子を見ることが好きだった。
坂の途中にぽつりとある一軒の小さな店に過ぎないけれど、ここから見える景色にだってそれぞれのかけがえのない出来事がある。
店の帳場に座っていると時が静かに流れ、風景がとても鮮やかに映るような気がしていた。
ある日の夕方。今日は一日天気が良く、店を開ける前に干しておいた洗濯物をそろそろ取り込もうかなぁと思い始めた頃。
なんだかばたばたという足音が聞こえてきた。走りにくそうで少々間隔がばらばらになっている音。つっかけでも履いているのだろうか。音は帳場に座っている私から見て右側から。
右側からということは、坂を下ってこちらに近づいて来ている人ということになる。
帳場のすぐ目の前にある窓から身を乗り出して見ればすぐ誰かがわかるけれど、私はいつもそれをしない。そのままちょっとだけ考えて、一人の顔が思い浮かぶ。私は顔なじみの人であれば足音だけでそれが誰なのかがわかった。
「ミノリちゃん、料理酒あるかい。つい切らしてしまっていてねぇ」
想像通りのお客様が店に入ってきた。隣の家に住んでいるおばさん。
隣の家といっても、この店の辺りは畑ばかり。そのためおばさんの家とは走ると息が切れるくらい離れている。料理中だったのだろうか。前掛け姿のおばさんは急いで来たのか店の入り口にある柱に寄りかかって肩を上下に動かしていた。
ちなみに、ミノリというのは私の名前。
「はい。ありますよ。大きい瓶でいいですか?」
帳場から出てすぐの棚に入っている料理酒の瓶を持ち、おばさんの近くまで行き商品を手渡した。
「今日はどうだったかい」
ようやく落ち着いてきたのかおばさんが笑顔でお金を渡してくれる。
「いつもと同じですよ。平和なもんです」
「そうかい」
元々小さな店のためそうそう滅多なことは起こらない。毎日退屈なくらいのんびりだ。
でも、それに越したことはない。このように過ぎていってくれればいいと思っている。
坂道を通り過ぎていく人々は日々変化があるのだろう。その中でこの店だけは同じ時の繰り返しになっているんじゃないかとさえ思えた。
お客様との会話や季節によって移り行く景色などをゆったり楽しめればそれでいい。だから昔からずっとこの店にいたのだ。
「この前は冷たい飲み物や氷菓子が売れましたし、もう少しで来る冬は温かい食べ物や手袋などが売れるでしょうし。なのでなんだかんだと潰れずに営業できてます」
「あはははは」
この辺りで何か必要だと思ったらまずここに来るしかない。坂道だからか歩いている人もけっこう買ってくれたりしているし、収入はなんとか確保できている。
「でも、本当に来てくださる方のおかげなんですよ。私がこうしてのんびりできるのは」
再び帳場に座っておばさんを見ながら伝える。これはいつも私が祖母から言われていたことだった。一人で店番をするようになり更にそう思うようになっている。
「そうかい。私もミノリちゃんがいてくれて助かるよ。おばあちゃんにもよろしくね」
「はい。ありがとうございます」
そして笑顔でおばさんは帰ろうと踵を返し、坂の上を眺めてまた私の方を振り向いた。
「ちょっとミノリちゃん、そこに座ってないで外に出てごらん」
「え、どうかしましたか?」
そう言いながらも素直に店の外に出る。
「わぁっ」
そこには茜色に輝く鮮やかな夕焼けがあった。店の中からもその様子は見えていたけれど、外はそれ以上だった。
辺りの畑もこの店も今立っているおばさんも私も、全部赤い。
ほんの少し冷えてきた風に吹かれながら、二人でしばらくその景色を堪能していた。
「ここにいるとこういうものも見られるのがいいなぁって思うんですよ」
坂を下ってしばらく歩いた先にある町からはすぐ見えなくなってしまうだろう。その分、ここからはほんの少しだけかもしれないけれど、長い間この様子を見ることができる。
「そうだねぇ。さて、そしたら私も帰ろうかな。それじゃまた」
「あ、はい。ありがとうございます」
そうしておばさんは再び帰って行った。先程までの慌てぶりが嘘のように落ち着いた足取り。
上り坂だからだろうか。それとも、料理の途中で切らしてしまった材料が確保できたことで安心できたのだろうか。
もしこの店で欲しい品物が手に入らない場合、この時間から出発すれば夜になってしまうくらいの距離まで歩かなければならない。さすがにこの時間にそこまではできないだろう。そういったこともあって、祖母が言っていた頼りにしてくれる人がいるということもよく理解できるようになっていた。
おばさんの姿が見えなくなり、店の中に戻ろうとした私は踵を返してふとまた立ち止まる。日が沈みかけているため徐々に肌寒くなってくる時間だけれど、今日は不思議と暖かかった。このくらいの時間になると天気のいい日でもそろそろ上着が必要になる。
珍しいなぁと思いつつ辺りを見ても、一面に広がっている鮮やかな茜色以外は特にいつもと変わった様子はない。訝しげに思いながらも気を取り直して店に戻ろうと歩き始めた時だった。
「あれ……?」
この季節ではありえないと思うほどの優しく包み込むようなそよ風が私の周りを包んだような気がした。こんな風が吹くのは穏やかな春の昼間くらいではないだろうか。
おかしいなぁという思いがあったが、でもそれ以上に、なんとも言い表せない思いが溢れてきて、なぜか一筋の涙が流れた。
「どうして涙が出てくるんだろう。変なの」
確かに辺りに広がっている夕焼けに感動はしたが、泣くほどのものだろうか。よくわからない。
そんなに感受性は強くないはずなのになぁなんて思いながら、そういえば外に出たついでに洗濯物を取り込んでしまおうと店の裏手に向かって歩き出した。
ある日の夜。今日は一日中雨が降っており、坂道を歩く人々も比較的まばらだった。
それと同時にお客様も少ないため、また私は帳場の辺りに灯りを置き、眼鏡をかけて本を読んだり、ふと店先を眺めていたりしていた。
始めはそれでも穏やかなしとしととした雨で、人々がそれぞれ色鮮やかな傘を差してゆったりと歩く様子をぼんやりと眺めていた。それが、時間が経つごとに風が強くなり、片手で傘を持つのがつらくなるくらいにまでなってしまっていたのだ。晴れの日やちょっとした雨の日くらいであれば、普段は店の戸や帳場のすぐそばにある窓を開けているのだけれど、今日はさすがにそうすることはできなかった。
それでも、店の戸の上部分や帳場の傍の窓は硝子になっているため、お客様の姿を見ることはできる。こちらに近づいてくる人がいれば戸を開けて出迎えた。そして、今日は雨具がよく売れた。
狭い店と家だったし、私は作業をしている時と寝ている時など以外はたいてい店にいるようにしていた。そうすることで急なお客様にも対応できるし、何より帳場の椅子に置いてある座布団がとても心地良いのだった。
夜も更け、そろそろ寝ようかと本を閉じる。だが、ふと外を見ると、何か物陰が動いたような気がした。この坂道には外灯がなく、いつもであればそうそう人など通らない時間だ。
このような小さな店ではたいして盗むものもない。そのため、今まで祖母も私も無事に店を続けられてきてはいるけれど、さすがに少々怖かった。
灯りをつけたまま、柱の影に隠れて様子を伺う。風も雨も強くてこの古い店はぎしぎしと音をたてているが、必死になって外の音を聞いた。私は耳は良い方なのだ。
ゆっくりとした足音が聞こえてくる。そして、この店へ近づいてくるような感覚がある。私はますます怖くなったけれど、それでも、なんだか平気なような気もしていた。
一人で暗い夜を過ごすことに慣れて度胸もついたのだろうか。そうこうしているうちに、足音は店のすぐ傍まで近づいてきた。こんこんと戸が叩かれる音がする。
その音が意外と穏やかな音だったため、私は柱の影からそうっと戸の硝子部分を眺めた。
そこには、なんだかとても困ったような顔をした青年が立っていた。
「はぁー助かった。ありがとう」
驚いた私が慌てて戸を開けると、ずぶ濡れの青年が店の中に入ってきた。私はすぐに奥の部屋から手ぬぐいを持ってきて青年に渡す。聞くところによると、出かける時も風と雨は強かったが、これくらいならまだ大丈夫と無理をして出てきたらしい。案の定途中で灯りも消え、傘は壊れてで散々な中、この店の灯りを目指してなんとか歩いてきたとのこと。
「大変でしたね。そんなに急ぎの用事だったんですか?」
私は夕食の残りだけれどと前置きして温めた煮込み料理を勧めた。うわぁと目を輝かせながら勢いよく食べる青年。その様子に思わず笑ってしまう。
でも、確かに寒かったのだろう。一応少し早いかなぁと思いつつも暖房をつけてみたら、その傍にべったりとくっついて離れない。煮込み料理も身体の中から温めるにはちょうどいいだろう。
まぁ、その分私はちょっと暑いのだけれど。このくらいは我慢しましょう。
「あぁ、ちょっと急いでてね。どうしても先に着いておきたくて。負けたくない奴がいるんだよね」
それでも失敗しちゃったなぁとまだ少し濡れている頭をかきながら苦笑する。それにつられてまた私も笑った。
「それで、どうしますか? 雨はまだ降っているようですし、風も強いです。一応ここは店なので雨具はありますし、灯りも風除けがついているものがあります。急いでいるのであれば、休憩したらまた出られますか?」
窓の外を眺めながら青年に尋ねる。先程よりは少しましになっているかもしれないけれど、それでもまだ外を歩くのは危険だと思えた。なのでこれからまだ先に進むなんていうことはないだろうと思いつつも一応聞いてみた。
「うーん。そうだなぁ」
食事を終えた青年は腕を組み何やら悩んでいる様子。どうしたらいいのかまだ決めかねているのだろう。私は立ち上がって食器を片付け台所へ行き、温かい飲み物を二つ用意した。
「わかった。うん。そうしよう」
ようやく考えのまとまった青年に飲み物を一つ渡しながら話の続きを促す。
「気が変わった。よく考えればこんな雨の日にあいつが外に出るはずないんだ。だったら頑張って早起きして、明日の朝晴れてたらすぐにまた出かければいいんだ」
「うーんと、それで、どうしますか?」
青年はすっかり結論付けた顔をしているけれど、私にはこれからどうするかが全く掴めなかった。青年が言っているのは明日のことで、私が聞いていたのは今日のことだったから。
「帰る」
「へ?」
自分でも間抜けな声を出してしまったなぁと思う。なんとか笑わずにいるけれど、今にも噴出しそうな顔の青年が目の前にいる。なんだか悔しくなって思わず軽くだけれど青年の頭を叩いてしまった。
「お世話になったし、せっかくだから雨具と灯りを買って帰るよ。また明日店の前を通ると思うから、その時はよろしく」
「そうなんですか」
私はなんだかすっかり拍子抜けしてしまった。何よりせっかくここまで来たのにまた引き返そうと言うのだから。特に相手と競争しているのであれば、少しでも早く着けるように考えた方がいいのではないだろうか。そして更に、無理して外に出るのであれば少しでも前へ進んだ方がいいのではないだろうか。
「気が変わったんだ。それとも、雨と風がやむまでここで泊まっていってもいいわけ?」
それは、少し困る……かもしれない。
深く考え込む私を見て、青年は暖かな笑みを浮かべた。
「無茶はやめようって急にだけど思ったんだよね。それに、目的地より俺が泊まってる宿の方が近いからすぐ着くし。雨具があれば大丈夫だよ」
そう言われて、私は素直に雨具と灯りを持ってきた。元々本人がそうしたいと言うのだから、そのようにしてもらおうと思う。
「ありがとう。俺、今日この坂の下にある町に来たんだ。だからこんないい場所があるなんて知らなかったよ」
念のため傘ではなく雨外套をまとい、灯りを持った青年。その言葉に私はにこりと微笑んだ。
「よろしくお願いします。そしてこの町にいる間は是非売り上げに貢献してください」
「おいおい」
そう言い合ってお互いに笑いながら気をつけるように伝え、青年を見送る。青年もありがとうともう一度言い、風と雨が吹き荒れる外へ出て行った。
次の日の朝。いつもであればもっと早い時間に寝ているのに、青年に付き合って夜更かしをしてしまった私は、朝起きてもなんだかすっきりせず呆けていた。
雨はすっかりやみ、空は灰色の雲がまばらになり広く鮮やかな青色が広がっている。今日はとても晴れそうな気がしていた。
比較的いつもよりもゆっくりとした動作で店を開ける準備をする。そんな中、なんだか軽快な足音が聞こえてきた。この音は聞いたことがないような気がする。
夜は外灯がないために人通りはほとんどないが、朝は夜が明ければぽつりぽつりとではあるけれど歩いてくる人の姿を見ることができた。これもそのうちの一つだろうと思う。
だが、その音がふと店の前で止まった。思わず戸の方を見てみると、昨日見た顔がそこにあった。
「やあ。昨日はありがとう。本当に助かったよ」
「おはようございます。早いですね」
それでも少し寝坊をしてしまったんだよなぁと呟く青年に驚いた。
「すごいですね。私はもう夜更かしのせいで身体がだるくて頭がぼーっとしてますよ」
今日は無理をしないでのんびり店番をしていようと思う。少しでも目を覚まそうと青年と一緒に外へ出て両腕で思いっきり伸びをした。
「今日も頑張ってな。帰りも寄るかもしれないし」
「はい。あなたこそ気をつけてくださいね」
私がそう伝えると、青年がはっとした表情をした。
「俺はルオンだよ」
……変わってるなぁ。それが私の印象だった。この辺りでは聞かない名前だ。
そう思って少し経ってから、そういえば自分はまだ名前を名乗っていなかったことに気がついた。
「私はミノリ」
「ミノリかぁ……。じゃあ、またな」
ルオンと名乗った青年はそう言い、坂道を少々早足で登って行った。
「はい。また来てください」
私がその背中に向かって声をかけると、ルオンは後ろを振り向かないまま右手を挙げてそれに答えてくれた。
それをきっかけに、ルオンは用事があってこの坂道を通るたびに店へと顔を出してくれるようになっていた。
ある日の朝。今日はなんだか空を分厚い雲がびっしりと覆っているというような天気だった。
少々肌寒いため、今日は温かい飲み物を中心に売ろうと趣向を凝らし、大きな鍋の中にお湯を入れて、その中に瓶を入れて中のものが冷たくならないようにしようと思い、その支度をする。頃合いを見て鍋を火にかけるべく薪の準備も万端。
店にいる時に祖母から教えてもらった天気の読み方。それによると、今日は一日どんよりとした状態ではあるけれど、雨は降らないと出ていたのだった。
少し寒くはあるが、ぶるぶる震えるわけでもない。かといって日差しが強すぎるわけでもない。このような天気の日は今のうちにと様々な用事をこなす人々が多くいて、その分この坂道の往来も多くなるはずだった。今もいつもより多い数の人々が朝早くだというのに早足で目的の場所へ向かっている。
一通り準備を終え、鍋の中の飲み物もちょうどいい感じに温かくなったため、いったん火を止める。後はまたお湯がぬるくなったらまたつけようと思った。
私はまた帳場の椅子に座り、窓枠に両肘を突きながら辺りを眺める。今日はみんなはどこに行くのだろうか。そして何をするのだろうか。目の前を通り過ぎて行く人々を眺めて当たっているのか外れているのかわからないけれど様々な想像をする。それがとても楽しい。
今日もこうして、時々訪れるお客様と話をしたりしながら、のんびりとした一日が過ぎるはずだった。
「わぁぁぁっ!」
急に大きな叫び声が聞こえて私は思わず支えていた両腕の感覚をなくし、顔を机にぶつけるところだった。危ないなぁと思いつつも気になったため立ち上がり、店の外に出る。
「うわぁ」
思わず声が出る。坂道を歩いている人々もその声と声の主の勢いに押され、自然と道を開けてしまっていた。
先程から急に悲鳴を上げていたのは、小さな少女だった。私の腰の高さより少し高いくらい。
どうしてそうなったのかはわからないけれど、坂を駆け下りてきている。おそらく思ったよりも速さが出すぎてしまい、自分で止められなくなってしまったのだろう。
よっしゃと腕まくりをしながら少女の前に出る。私は前に袋からぼとぼとと零れ落ちた荷物を全部拾ったこともあるし、坂の上から転がってくる大きな樽だって止めたことがあるのだ。
私は両足と両腕に力を込めながら、叫び続けている少女を抱きかかえた。少々衝撃を感じてよろけたけれど無事に止められてよかったと思う。
少女は何が起こっているのかよくわからないという感じで瞬きをぱちぱちと何度もしていた。
辺りから小さくではあるが歓声と拍手が聞こえてきたため、私はなんだか恥ずかしくなってしまった。
「どうもありがとう」
温かな飲み物を飲み、ようやく落ち着いたのか、少女が口を開いた。
少女の話では、始めは危ないながらもしっかりとした足取りで走っていたものの、途中で石につまづいてしまい、そこから平衡感覚を崩して止まらなくなってしまったらしい。転ぶのもぶつかるのも怖いし、でも自分で止めることはできないしでどうしようかと思ったとのことだった。
「だめだよ。この坂道だってけっこう急なんだから。まぁ、私も人のことは言えないけどね」
実は私も小さな頃によく坂道を走っては祖母に注意されていた。店に遊びに行く時に少しでも早く着きたくてつい走ってしまうのだ。転んで大きな怪我をしてからはさすがにやめたのだが、それもあって少女の気持ちもなんとなくわかるものがあった。
「うん。ごめんなさい」
素直にうなずく少女。その様子がとても可愛くて思わず頭を撫でてしまう。
今私は少々狭いけれども少女と二人で帳場の椅子に座っていた。ふと少女の足元を見ると、小さいものではあるがかすり傷が見える。
「あ、怪我してるじゃない。ちょっと待っててね」
そう言って奥の部屋から救急道具を持って来ようと立ち上がった。
「私なら大丈夫だよ。このくらい。怪我しても大丈夫なんだよ」
少女が私の腕を掴んで言う。確かに小さな傷のためすぐに治るだろうけど、念のため薬を塗るに越したことはないと思った。
「いいからいいから」
私も子供の頃はそうだったが、傷が沁みるため薬は嫌だと思ってしまうのだ。でも結局はつけた方が治りが早い。このくらいはなんとか我慢してもらおうと思う。道具を持って来て黙り込んでしまった少女の足に薬を塗った。
「はい。これで安心だね」
そして機嫌を損ねてしまったかなぁと思いつつ、今度はおやつにしようと思っていたお菓子を取り出して渡した。それを見た途端少女はぱぁっと目を輝かせる。さすがお菓子が大好きな年頃だなぁと思う。
おいしそうに笑顔でほおばる少女を眺めているとなんだか自分が小さな頃を思い出す。祖母も私がこうしてお菓子を食べている様子を温かな笑顔で見てくれていた。
「あ、そうだ。そんなに急いでどうしたの?」
私は少女がお菓子を食べ終わり満足した頃にふと尋ねた。坂道を駆け下りるくらい急いでいた理由がなんとなく気になったためだった。
「特に急いでいるっていうわけじゃないんだよ。私は足が遅いから、走ったら少しは早くなるんじゃないかなって思ったの。競争に負けちゃったんだ」
悔しそうな表情で呟く少女。次は負けないと決意しているようで両手を硬く握り締めていたが、ふと私の方を見た。
「私、いつも負けちゃうの。私の方が偉いのに! でも、今回は私が勝ちを譲ってあげたんだよ!」
少女の気迫に少し圧倒されながらも、そこまで思い切れるのはすごいと思った。
「そうなんだ。残念だったね。それで、坂道を下ってどこまで行くの?」
続けて出た私の質問に、少女は何か困っているようだった。もしかすると、特にどこに行くという目的はなかったのかもしれない。
「うーん……。今日の目的は実はもう達成しちゃったんだけど、せっかくだから、坂道を下ったらどんな景色が見えるのか見ておこうかな。いつも見下ろすばかりだったからね」
少女は坂の上をもっと先に行ったところに住んでいて、この辺りまで来るのは初めてらしい。一人で大丈夫? と軽く問いかけると、坂道からは離れないようにするから大丈夫。迷わないよとの返答。
私もよくやっていたが、ちょっとした探検なのかもしれない。
「そしたら、私、もうちょっと行ってみるね」
少女が立ち上がり、店の外に出て行く。私もその後を追って行った。
「もし何かあったらまた寄ってね。あ、今度は走っちゃだめだからね」
まだまだ元気いっぱいの少女に軽く釘をさすことも忘れない。
「うん。大丈夫だよ。ありがとう。それじゃね」
そう行って坂道をてくてくと歩いて下っていった。今はまだ朝だから少女の足でも昼くらいには坂の下の町に出るだろう。無事辿り着くだろうかと思いつつも、元気ながら利発そうな少女だったため心配ないだろうとも思えた。
そして私は再び帳場に座ってまた行き交う人々をのんびりと眺めていたが、ふと思い立ってまた新しくできた壁の隙間を埋めるべく板や釘と戦おうと立ち上がった。
少女から元気をもらったのか、今日は力仕事でも難なくこなせるんじゃないかと思えたのだった。
その日の夕方。すっかり疲れてしまったけれど、なんとか快適になるくらい壁を修復し、飲み物を飲みながら一息ついていたところにてくてくと可愛らしい足音が一つ聞こえた。
もしかしたらと思いつつ背を伸ばして帳場の傍の窓から外を眺めようとしたが、それよりも早く店の入り口からひょっこりと朝に会った少女が現れた。
「こんにちは。朝はありがとう」
「あ、どうだった? けっこう長い坂道だったでしょう。疲れなかった?」
少女はその問いかけに首を横に振る。
「ううん。疲れなかったよ。でも、おなかはすいちゃった」
私はふと一つの考えが頭をよぎった。
「もしかして、お昼ごはん食べてないの?」
「うん。さっきまで夢中だったから、すっかり食べるの忘れちゃった」
しまったと思った。朝少女が店を出る時に何か食べ物を持たせてあげればよかったと思う。
「そうしたら、ごはん一緒に食べましょう。ちょっと店番してもらってていい? お客様が来たら呼んでもらえればいいから」
私は帳場から出て、そして代わりにちょこんと少女を座らせた。少女もこの場所が居心地良いらしく両手両足を伸ばしてゆっくりと伸びをしている。
本当に私の小さな頃にそっくりだなぁと思いながら、私は食事の支度をするべく隣の部屋へ向かった。
「おいしい!」
そして、今目の前に少女の満面の笑みがある。そんなに力を入れて作ったわけではないと思いつつも、久々の一人ではない食事だったため、無意識に頑張ってしまったのもあるかもしれない。自分で食べてみても、自画自賛になってしまうけれど、おいしいと思った。
「いいなぁ。こういうごはん、もっと食べたいなぁ」
それにしても、少女がそこまで喜んでくれるとは思っていなかったため、なんだか無性に嬉しくなる。
「あなたさえよければ、またいつでも遊びに来てね。たまにはこうして食べるのもいいなぁって思うし」
「うん。ありがとう! あと、私はルーチェだよ」
「……ルーチェだね。よろしくね。私はミノリだよ」
この子も変わった名前だなぁと一瞬思った。でも、少女が名乗ってくれたのにまた私は名前を言っていなかったことに気づいて名乗る。先日のルオンといい、どうしていつも忘れてしまうのだろうと思う。
「ミノリだよね! うんうん。こっちこそよろしくね!」
日々店でお客様と話をしたりする時にも、特に名乗ったりはしない。近所に住んでいる人だったり、よほどの常連さんでない限りは、だいたい一過性のお客様ばかりになってしまうためだ。
元々坂道の途中にある小さな店。基本的には通り過ぎて行くだけでしかない。
そう考えると、なんとも言えない気持ちになるが、ルーチェの気持ちはとても嬉しかった。
「それじゃ、そろそろ暗くなっちゃうかもしれないから、私帰るね。ごちそうさま」
「うん。こっちこそ楽しかったよ。またね」
登る時は走っていってもいいよねと小さく呟き、店の外に出て元気良く坂道を駆け上がって行った。
これをきっかけに、ルーチェもことあるごとに店によく遊びに来てくれるようになっていた。
ある日の昼、今日は鮮やかな快晴の青空が広がっていたけれど、私の心の中はどんよりとして落ち着かなかった。
いつものように帳場の窓から外を眺めていた私に、ばたばたとした足音のお客様が訪れ、伝言が告げられたためだ。
祖母の具合が急に悪くなったらしい。
どうしてだろうと思う。私に店を任せてくれた5ヶ月前だって、体力は落ちてはいるものの元気だった。
私が窓からぼんやりと外を眺めているその傍らで、趣味である編み物をしながら微笑んでくれた顔がずっと頭に張り付いて離れない。祖母は実家でもしっかりと編み物をしていたはずだ。
実家と店との距離はそんなに離れているわけではないため、時間を見つけては帰っていたし、その時にはいつも暖かな手で私の頭を撫でてくれていた。もうそんな年じゃないんだからと言ってもその手は止まらず、母親からも笑われていたりもした。
全く、具合が悪くなるということは想像つかなかった。ちょっと足腰が弱くて、長時間立ち続けたり重いものを持てなくなったりするくらいの程度だと思っていた。
話によると、もう祖母は立つこともできず、常に床の中。そして食事も喉を通らなくなっているらしい。
私はいても立ってもいられずすぐにでも実家に帰りたいと思った。既にお客様がいない時間を使って帰宅準備はできている。
心配で店を閉めて帰ってきてしまったと言えば、祖母は怒るだろうか。
それでも、どうしても、祖母の顔を見ておきたかった。
「こんにちはっ」
実家に帰る準備を終えてからずっと考え事をしていたからだろうか。店の中にお客様が来ていたことにずっと気づいていなかった。店の中には、ルオンと、ルーチェと、そして祖母。
「えええええっ!?」
私は頭が落ち着かないというか、どうしてというか、伝言は何だったのというか!
「ばあちゃん! どうしてここにいるの? 病気は? 具合悪いんじゃないの?」
立て続けに飛ぶ質問に祖母は何やら困っているようだった。どう説明したらいいか考えているようだ。
それでもいい。寝たきりになってしまったと聞いたけれど、こうして今祖母は私の目の前で元気に自分の足で立っている。
祖母がルオンとルーチェと顔を見合わせる。こくりと頷いたのはルーチェだった。
「あのね、おばあちゃんは、もうずっと前から私と一緒に行かないといけなかったの。でも、どうしても店が心配だからって。ミノリが一人で生きて行けるようになるまではだめだって」
ルーチェが祖母の手をぎゅっと強く握る。祖母は私を眺めながら笑顔で微笑んでいる。
「ずっとおばあちゃんのことを遠くから見てたルオンからもあと少しだからって説得されちゃったから、私は今まで待ってたんだよ。それで、今日ならいいって。今日はとってもいい天気だし、ミノリももう平気だから旅立ってもいいって」
私には、ルーチェが何を言っているのかよく理解できなかった。ただ耳から耳へと言葉が流れていくだけのように感じていた。そもそも、知らないはずのルオンとルーチェと祖母が、どうして一緒にいるのかというのもよくわからない。
「俺は、ミノリが俺たちと会う前からルーチェがばあちゃんを迎えに来るって知ってたんだ。ちょっと前にものすごくきれいな夕焼けがあった日を覚えてるかな。あの時にばあちゃんも自分の死期がわかったらしくて、でもまだミノリが心配だからって、身体を抜け出してまで店に来てたんだよ」
少し前に店に買い物に来てくれたおばさんと眺めたあの日の夕焼けのことを言っているのだろうか。確かにあの時はどうしてかはわからなかったけれど、いつもと様子が違う気はしていた。
「でも、そんな不安定な姿で辺りをうろつかれると色々不具合が出てこっちも困るから、ルーチェと相談して少しだけ期間を延ばして、あとはそれぞれミノリの様子を見に行って伝えてたわけ。ミノリが一人でしっかりやってるって聞いてばあちゃんはずっと喜んでてさ。ほっとしたって言ってたんだ」
わからない。わからないよ。そもそも迎えに来たって何?
唇をかみ締め、両手を強く握り締める。あまりに強い力だったためぷるぷると腕が震えたが、そんなことは全く気にならない。
どういうことだろう。でも、ただ一つ言えることは、ばあちゃんを連れて行かないでというだけ!
「……ミノリ」
ぽつりと祖母が私の名前を呼ぶ。私は固く力を込めていた身体からふっと力が抜けたような気がした。ルオンとルーチェが私を帳場の椅子へ座らせてくれる。
「私は、ミノリがこんなにこの店を好きになってくれて本当に嬉しいよ。ありがとう。あと、私は本当はもっと前からここに残っていてはいけない人だったの。でも、私のわがままでここまで伸ばしてもらったの。もう悔いはないよ。だから、お願いだから、笑顔で見送ってちょうだい」
「ばあちゃん!」
嫌だよ。まだまだばあちゃんには傍にいて欲しいよ。もう私も大きいから二人で帳場に座ることはできなくなっちゃったけど、また二人で店をやりたいよ。
今私は店番をしているけれど、ばあちゃんが今まで作ってきた信頼と温かさを私一人では作っていけないよ。もっと色々教えて欲しいよ。まだ早すぎるよ!
「もうそろそろだね。おばあちゃん。行かなきゃ」
ルーチェの言葉に穏やかに頷き、共に店の外に出て行くばあちゃん。
「ばあちゃぁん……」
私はとうとう涙が止まらなくなってしまった。すっかりいい年なのにあふれて拭っても拭っても出てくる。一度ばあちゃんは戻って手で涙を拭こうとしてくれたけれど、その手は私の身体をすり抜ける。あとは優しくて暖かな感覚が残るのみだ。鮮やかな夕焼けの日に感じた暖かさと同じだった。あの時も私のことを抱きしめてくれていたのだと今は思う。
落ち着こうという思いもあった。それでも涙は止まらなかった。
「大丈夫だから。ミノリはしっかり者だよ。二人から色々と話を聞いて確信したよ。これからもきちんとやっていける。私がいなくても大丈夫だから」
まだだめだよ。ばあちゃんがいないと私まだだめだよ……。
「じゃあ、行くね。ルオン、あとはよろしくね」
そう言ってルーチェとばあちゃんが二人で手を繋いでゆっくりと坂道を登って行く。
坂の途中にある小さな小さな店。
そこから、ふと光の加減で頂上が輝いて見えることがある。
今は眩しくて見ることができないくらい、坂の頂上が光り輝いて見えている。そして、二人がその場所へゆっくりと歩いて行く。
その様子がとても神々しくて、私は思わず足を止めて魅了されてしまっていたけれど。
首を振ってそこから耐えた。そして坂道を駆け上がって追いかけようとした私の腕をルオンが掴んだ。
「離して!」
ぶんぶんと腕を振り回し、必死になって訴えたが、それはできないよと小さく言われた。
「ミノリはまだあっちに行っちゃだめだ。ほら、ばあちゃんも言ってただろう。笑顔で見送ってやりなよ」
そう言われてはっとする。私はいつもばあちゃんに迷惑ばかりかけていたけれど、そしてばあちゃんは私のわがままを笑って聞いてくれていたけれど、ばあちゃんが私にお願い事をすることなんてなかった。店を継ぐと言い出したのも頼まれたわけじゃなく自分から言ったことだ。
私は首を強く左右に振って涙を飛ばし、残りは腕で拭った。なんとか止めようと思った。
そして、顔中真っ赤になってしまってとても醜いけれど、でも、そんな顔だけれどなんとか笑ってみた。笑えた。
ルーチェと二人で歩いていたばあちゃんが、ふと後ろを振り返った。
ルオンと二人で笑顔で片手を振っている私を見て一瞬驚いているようだったけれど、その後ばあちゃんも満面の笑みを浮かべてくれた。そして何度かうんうんと頷いているようだった。
そして、再び前を向いて光り輝く坂道をどんどんと上に登って行った。
私とルオンはその様子を目を逸らすことなくじっと見続けていた。
それから、坂の頂上まで二人が登り切った時、辺りの光が更に増して、その後次第にそれは収まっていった。
そして、またいつもの坂の頂上に戻った。
坂の途中にあるいつもの場所。私の定位置。
そこでゆったりと呆けていると、ふと光の加減で頂上が輝いて見えることがある。
その時に坂を登りきったら、その先にはどのような光景が広がっているのだろうか。
見てみたい気もするけれど、今はまだその時じゃない。
ばあちゃんから託されたこの店を、ずっとずっと守り続けていくのだから。
そして私は時々ふと光り輝く頂上を眺めては、ばあちゃんのことを思い出してまた頑張ろうと思うのだ。