何もなかった。
ここには、何もなかった。
目を開けたら、いつの間にか俺は真っ暗な空間の中にいた。
広いのか狭いのかも全くわからない。
そして、俺自身についてもわからない。
目を開ける前は何をしていたのか、俺は誰なのか。
記憶がなくなっているのだと思う。
俺の周りも、俺自身も、からっぽだった。
とりあえず、熱くも寒くもなく、そういう意味では不快な空間ではなかった。
でも、どうして俺はこんな空間の中にいるんだろう。
そもそも、俺は誰なんだろう。
ひとまず、一歩踏み出してみる。……歩けた。
何も見えないため立っているのか浮かんでいるのかすら感覚がなかったが、自分の足で立っている感覚が蘇り、少し落ち着いたような気がした。
一つの光がぽつんと見えた。
決して強いわけではない。むしろ弱いかもしれない。
それでも、この暗闇の空間での唯一の光は、とても明るく暖かく光っていた。
それにとてつもない魅力を感じた俺は、その光の浮かんでいる方向へ歩き出す。
身体がなぜか重く、一歩一歩がとてもつらい作業だった。
それでもなんとか光のある空間へ辿り着く。そしてそれに触れた。
かしゃぁーん……かしゃぁーん……。
鈍い音が出る。そしてその光は縦に二つに切り裂かれ、徐々に明るさを消して行き、暗くなった。
辺りの空間と同化したそれはもう光らない。
そして、一瞬持った時にかすかな暖かさを感じていた感覚は、少しずつ、辺りの暗闇に吸い取られるようにしてなくなっていった。
そうしてまた真っ暗な空間の中で一人佇むことになった俺は、なんだか深い喪失感に襲われていた。
何か、自分にとってとても大切な何かが消えてしまったような、そんな感覚。
今の俺には何もないというのに、なぜかそんな気がして訳もなく可笑しくなり、そして寂しくなった。
俺は、先程の光を自分の手で壊してしまった。
ほんの一瞬、触れただけなのに。
俺はこの暗闇の中で、様々なことを考えていた。
これからどうしたらいいか。何をするべきか。何をしたいのか。
それでも、この何もない真っ暗な空間で、俺にはいったい何ができるだろう。
しばらく何もできずに佇んでいた俺は、再び浮かび上がってきた光を視界の隅に感じ、そちらの方向を眺めた。
遠くで小さく浮かび上がっている光は、やはり俺を惹きつけるには充分だった。
それに、この暗闇の中で唯一の手がかりとなるものなのだと思う。
このままじっとしていても、何も解決しないだろうと思っていたし、すがれるものがあればそれを求めたいと思った。
光に近づくと、先程と同じように暖かい印象を受けた。
俺は再び光にそっと手を触れる。
かしゃぁーん……かしゃぁーん……。
鈍い音が出る。全て反応が同じだった。光が縦に切り裂かれ、徐々に明るさも暖かさも消えていった。
そして、また感じる喪失感。
とても、とても悲しい。なんだか身体の中から熱が奪われていくような感覚があり、寒くなって思わず身体が震えた。
自分で自分を抱えて凌いだけれど、身体が冷たくなっていく状態はずっと止まらなくなり、苦しくなる。視界もぼやけてきた。
このままどうなるんだろうと不安感が募ってくる。
次第に立っていられなくなり、かろうじてあるらしい床に座り込んだ。
座り込んだままの中でどのくらいの時間が経ったのかはわからない。
暗闇の中にまた一つの大きな光が浮かび上がった。
それでも、今度のそれはただの光ではなかった。
遠いところにいるために、俺は目を凝らしてよく見たが、それでもはっきりとした形はわからなかった。
ひとまずそばに行ってみようと思い、なんとか立ち上がって歩き出す。近づいていくたびにだんだんとそれが何なのかがわかってきた。
それは一人の少女。
腰よりも長く伸びている髪の毛はしっとりと背中に流れている。薄い色の洋服を着て、暗闇の中に浮かび上がるように立っていた。
俺は少女の前に立ち、眺める。
目はずっと閉じられているが、俺は思わず見惚れてしまった。
少女からほんわかとした光が放たれている。それがとてもきれいで暖かくて、暗闇の中で心安らぐ。
思わず手が伸びたが、触れる前にはっとして止めた。
先程までのことを思い出したからだった。
この暗闇の中で光が浮かび上がった時、俺はいつも耐え切れず触れてしまっていたが、全て壊れてしまい、そしてその後で心の中が空っぽになるようななんともいえない喪失感が生まれている。なんとも言えず悲しくて涙がこぼれていく。俺は無表情のまま、今もずっと涙を流し続けていた。
俺はなんとか衝動を押しとどめ、その少女をずっと眺め続けていた。
暗闇の中、何もなかった中に、一つの明るい光ができた。
流していた涙は、いつの間にか止まっていた。
「こんなところで座り込んでたらだめだよ」
いつの間にか、目の前の少女が目を開けていて、俺を見つめていた。
身体から放たれている光は、止まっていない。
深い深い青色の瞳。色の白い肌にとても合っていて、そして目を閉じている時も美しいという印象があったが、更に目を奪われてしまった。
俺はしばらく何も言えず動けずにいると、少女は黙って俺を眺めたまま一瞬目を見開いたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「記憶がないんだね」
俺が何も言っていないのに、少女にはお見通しのようだった。
驚いている俺に、更に言葉を続けてくる。
「今は仕方ないのかな。でもそれは悲しいよ」
少女の言っている言葉の意味はさっぱりわからなかったが、一つわかったことがあった。
この人は、俺の知らない俺を知っているということだ。
「自分のこと、知りたいって思ってくれてるんだよね?」
俺は確かに声を出さずに思っただけだった。
目の前の少女は心を読むこともできるのだろうか。
「うん。できるよ」
少女が間髪開けずに答える。
「だって、ここは私の世界であってあなたの世界でもあるから」
少女は俺を見つめたまま静かに語り始めた。
「どうしてここに来たのか。それはいくつかの理由があるよ」
立ったまま軽く身を乗り出す俺を見て、少女は穏やかな笑みを見せる。
「まず、あなたは全てにおいて心を閉ざしているということ。自分自身にすらも。だから今記憶がないの。それは、思い出したくないから」
俺は、自分で記憶をなくしたいと願ったということだろうか。
「そうだよ。あなたにとって記憶を取り戻すっていうことはとんでもない苦しみを伴うの」
少女はふと真顔になった。
「ここから抜け出して元の生活をするか、ここにずっと居続けるかは、あなた次第だよ。ここには何もないけど、元の生活に戻るよりはましかもしれない。……でもね!」
俺は自分で望んで記憶をなくしている。けれど、その代償か何かはわからないが、この何もない空間にずっといなければならない。ということか。
「あ、一つ訂正ね」
俺の思考は少女の声によって一度中断された。
「ここにずっといることはできるけど、永久にいることはできないよ。ずっとっていうのは、存在が終わるまで」
俺は言葉の意味がわからずにじっと少女を見つめる。
「ここにいられる期間はせいぜい三日くらいかな。それ以上経ったら、あなたっていう存在が消えるの。今は本来あなたがいた世界ではちょっと眠ってる状態だけど、このままでいると、簡単に言うと、完全に死んじゃうってこと」
俺という存在がなくなって、死んでしまう……。
いったい俺は何をしたいんだろう。このまま流されるように消えていくのをおとなしく待った方がいいのだろうか。
「あなたは、答えを探し続けてる。そして、救いを求めてる。だから、ここにいるんでしょ?」
少女の言った言葉を受け、俺は言葉の主を眺める。
「あなたにとって自分っていう存在がもう完全に必要ないということであれば、ここへなんて来ないで、完全に心をなくして、肉体は動きを止めて、今頃焼かれているか埋められているかしているはずだよ」
ストレートに物を言う人だなぁと俺は思わず軽く笑ってしまう。
「でも、ここへ来たってことは、そうじゃないんだよ。……だからね!」
この何もない空間で、記憶もないままただ立っている。こんな俺には何が残っているというのだろう。
そもそも、消えている記憶と今の状態とを天秤にかけることなんてできない。
なくした記憶は俺が自分で消したいと思ったものなのだから、それを元に戻したいとは思わないのではないだろうか。
でも、俺はなくした記憶が何なのかすらわからない。だから、それが本当に俺にとって耐えられないものだったのかもわからない。
「結論を出すのに、記憶が必要?」
突然少女が尋ねてくる。俺はそれにこくりと頷いた。
「それはあなたにとってつらいものでも?」
あぁ。ここにいてもずっと消えて、そして俺が持っている記憶もとても苦しいものであっても、最後にそれだけは知っておきたいと思った。
自分でなくしていて思い出したいとは妙な話ではあるけれど、知らないでいるままの方がいいかもしれないけれど、しっかり聞いてから、判断をしようと思った。
少女が、ふっと微笑んだような気がした。
「わかったよ。そしたら、少しずつあなたの記憶を引き出していくね」
そう言って少女は目を閉じ、手を胸の辺りで組んで何かを呟いた。
ばさぁっ……。
突然少女の背中から大きくて白い羽が出てきた。俺は驚いてしまって何も言葉を出すことはできなかったけれど、白い羽は微かな光を放ってとても神々しかった。
そして、その羽が生えた勢いで何枚かの羽がひらりひらりと舞い、床に落ちた。その枚数は少しずつ、少しずつ増えていく。
「その羽に触れてみて。記憶を断片的に引き出してくれるはずだから」
俺は恐る恐る、一番近いところに落ちていた羽を一枚手に取る。
先程暗闇の中での光に触れた時は光が縦に切り裂かれて消えて行ったが、この羽は、触れると俺の手の中に吸い込まれるかのようにして消えていった。
そして俺の頭の中に短い映像が流れていく。
頭の中で流れた映像は、ある街の雪景色だった。
そうして俺は、何枚かの落ちている羽に少しずつ触れていった。
雪が降り続く街。
木でできた、小さいけれど、とても暖かな家。
楽しい様子が聞き取れる子供たちの遊ぶ声。
家の中の一部屋。
可愛らしいくまのぬいぐるみ。
茜色に染まる夕焼け。
食卓に並ぶおいしそうなごはん。
庭の木の切り株に乗せられた大きな剣。
降り積もる雪。
赤く染まる雪。
微笑みながら流す涙。
噴出す赤いもの。
視界も赤くなる。真っ赤になる。赤以外何も見えなくなる。
かしゃんと落ちる剣の音。
両手のひらを見てみると、ぬるぬるした赤いもので染まっている。
自分自身も真っ赤。
動かなくなってしまったとてもとても大切なもの。
……うわあああああっ!!
俺は頭を抱えて座り込んだ。
そうだ。俺は……、俺は、この手で家族を手にかけたんだ。
父さんと、母さんと、それから、妹のリール。
俺だけはならなかったけれど、三人は大流行の病にかかってしまって、治療法もみつからなく、かかったとしたらただ死を待つしかない病気。
しかも、更に質の悪いことに、これはかなり感染力の強い病気だった。そのため、この病にかかってしまった人は、新たな犠牲者を防ぐため、死を待つことなく死を迎えることになるのだ。
俺の家族は……。どうしてなんだよっ!
俺に殺されることを願ったんだ!
俺はろくに考える時間も与えられないまま、剣だけ持たされて、庭で……。
そして、事が済んだら、この街から出て一人で暮らしなさいと、そう言い残して。
どうしてそんなに心穏やかでいられたんだ?
どうして泣いているのは俺だけだったんだよっ……。
俺に、こんなことさせるなよっ!
剣を握り締めさせられたまま、動くことができなかった俺のところに、リールが飛び込んできて、自分で剣を突き刺したんだ。
まだ、その感覚が手に残っている。
でも、それを感じた後の俺は、ただただ夢中だった。
一人で涙を流しながら剣を振っていたことだけしか覚えていない。
そして、三人が動かなくなってから、剣を投げ捨てて街を飛び出して、走って走って、息が苦しくて呼吸が止まってしまいそうなくらいに走って。
……気がついたらこの何もない空間の中に立っていたんだ。
「どうだった?」
少女の声が聞こえる。でも俺は、見ることがとても怖かった。
記憶を取り戻してようやく気がついた。
「それとも、おにいちゃんって戻した方がいい?」
何もない空間の中で、微かな光を放ちつつ立っている、純白の羽を生やした少女は、俺の妹、リールだった。
「リー」
俺は身体ががくがく震えたけれど、座り込んだまま顔だけを見上げて妹を見つめる。
「忘れないでって言ったのに」
リールは寂しそうに微笑んで呟いた。
「約束したよね。私達はいつもおにいちゃんのそばにいるから、いろんな景色見せてねって」
俺は何も言えなかった。その約束も、今妹から言われてようやく思い出したくらいなのだ。
「おにいちゃん、私達は病気になっちゃってとっても悔しかったけど、でも、まだ良かったって思えたこともあったんだよ。それは、おにいちゃんは病気にならなくて良かったって。私達の分までしっかり生きてくれるよねって。でも、私達の約束を破っちゃうんだ。ひどいね」
俺は自分でも気づかないうちに涙を流していた。リールの羽をもらったことで俺の身体は少しだけ失ったものが取り戻されて暖かくなっていたけれど、喪失感を埋めることはできなかった。
「ごめん。ごめんな……!」
俺は謝ることしかできない。しかも、何について謝っているのかもよくわからなかった。
手にかけてしまったことについてなのか、家族のことも自分のことも全て忘れて消えようとしていたことについてなのか。
「ううん。いいよ。だって、おにいちゃん、つらかったよね。たぶん、私達よりもつらかったよね。それに、さっき自分で思い出したいって思ってくれた。だから、いいよ」
リールも、笑いながら涙をこぼし続けていた。
「おにいちゃん、ほんの少しだけ残ってる光も消しちゃうところだったんだもん。あと一つ消してたらおにいちゃんも消えちゃってたんだよ。その最後の光が私。私はおにいちゃんの力を借りてここにいるの。だから、返すね」
ごしごしと手で自分の涙をぬぐうリール。
「もう一回約束するよ。今度は絶対に守ってよね」
そう言ってリールは心からの、そして最後の微笑みを見せた。
「私達の分まで、しっかり生きて。おにいちゃんは何も悪くないんだよ。私達は、おにいちゃんが元気になってくれたらそれでいいの。わかる? もし破ったら、地獄に送ってくださいって神様に頼んじゃうんだから!」
リールは最後までいつもの調子だった。明るくて可愛くて。どうして生き残ったのが妹ではなく俺なのだろうと思う。
それでも、こんな俺でも、生きていることを望んでくれている人がいることはとても嬉しかったし、いつも見てくれている存在にようやく気がついた。
俺は、自分の悲しさやつらさしか見ていなかったんだ。
リールよりも、俺の方がよっぽど子供だった。俺は思わず苦笑してしまう。
首を軽く傾げて俺の顔を覗き込む妹に、俺はようやく微笑み返すことができた。
「あぁ、わかった。頑張ってみるよ」
俺の言葉を聞いて、リールはますます微笑みの度合いを強める。
「やったぁ! 絶対だからね。おとうさんとおかあさんにも報告しなきゃ!」
そして立ち上がった俺にリールは思いっきり抱きついてくる。
「そうしたら、おにいちゃんから借りた力、返すね。私達のこと、忘れないでね」
リールの背中から生えた翼が俺を柔らかく優しく包み込む。その心地良さを感じつつ目を閉じる。
「ばいばい」
真っ暗で何もなかった空間の中に眩しすぎる光が一気に押し寄せる。
そして意識が拡散した。
「ご主人さま、お客さまがお見えです。ご主人さまにお会いしたいと」
使用人がドアをノックした後に入ってくる。俺は仕事の手を止め、入り口付近に立って指示を待っている女性を見た。
「どなただ? 名前は言っていたか?」
俺が尋ねると、使用人は静かに頷いて答えた。
「はい。こちらへは初めてのお客さまですが、三名いらっしゃいまして、その中のお一人が『リー』と言っていただければわかるとおっしゃっておりました」
「リーだって!!」
俺は思わず机に強く両手をつき、椅子から立ち上がった。
「そんなことがあるのだろうか……。ひとまず、早く連れて来てくれ!」
俺の態度が変わったことでとても驚いたようではあったが、はいと一言返事をして、すぐ使用人は部屋を出て行った。俺はなんだかそわそわとしてしまい、部屋の中を意味もなく歩き回る。やがてばたばたとした足音が響き、ドアを勢いよく開ける音がした。
「この格好では初めましてっ!」
そう元気に言いながら部屋に入ってきた少女は、俺の記憶からはずいぶんと小さくなってはいたが、確かにリールだった。
「リー! 本当にリーなのか?」
俺はかつての妹だった少女に駆け寄り抱き上げる。俺の腰ほどの身長しかなかったが、長いストレートの髪の毛と、深い青色の瞳は確かにリールそのものだった。
「うん。そうだよ。本当はおにいちゃんを最後まで見届けようって思ってたんだけどね、私よりも先に転生したおとうさんとおかあさんの子供として生まれ変わらせてくれるってお話があったから、お願いしたの」
こんなことが、本当にあるのだろうか。こんな幸せなことが。
「私だけ先に走ってきちゃったけど、後からおとうさんとおかあさんも来るよ! 今のおにいちゃんよりも若いけどねっ」
あははと笑いながらリールが言う。確かに、俺はあの何もない空間から元の世界に戻ってから30年の間、ずっと妹との約束を守って生きてきた。生きていくためには苦労もしたけれど、今は小さいながらも会社を経営することができるようになっている。
俺は月日の流れを感じつつ、今こうして元気に過ごすことのできる喜びをとても強く感じていた。それはもちろん、俺を支えてくれていた人達がいたからだ。
「リー、ありがとうな」
少女をしっかりと抱き、改めて礼を言う。リールは驚いて目をぱちぱちとさせていたが、やがてにんまりとした笑みを浮かべた。
「えっへっへ。そしたら私、今欲しいものがあるんだ。買って欲しいなっ。おにいちゃん、今は社長さんなんだもんね。すごいね!」
そういえば、リールは昔からとてもしたたかな子だった。全く変わらない様子のリールを眺め、俺は心から笑い出す。そして、部屋に近づいてくる二つの足音を感じ、今度は涙がぼろぼろとこぼれて止まらなくなった。
めまぐるしく変わる感情の変化に可笑しくなりながらも、嬉しくても涙がこぼれるんだなぁと俺は心の片隅で考えていた。