……痛いよう。
ちくちくするような、そんな痛みがずっと続いてる。
どんなに楽しいことを考えても、どんなに嬉しいことを思い浮かべても、決して消えない。
気にすればまた痛みが増すし、でも忘れようと思ってもだめ。
気がつけば、いつもしかめた顔をしてしまってる。
自分で自分を抱えて、逃れようとするけれど、やっぱりだめ。
……痛いよう。
早く開放されたいけど、でも、いや。
今は大切なものにしがみついていたいから。
シトリンは、もう自力ではなかなか立ち上がれないくらい体力がなくなっていた。
立つ時もなるべく悟られないように椅子などに掴まる。歩く時も体を支えられる場所を選ぶ。
もう自分ではコントロールできないくらい常に寒気が生じ、暖かいセーターに身を包んでいても全く効かない。
体は暑いが、ふるえが止まらない。暖炉の前に座りこみ、汗をかきつつも常に寒い感覚。
自分でもこの体の状態の変化は脅威だった。
(まだ早い。もうしばらく私はここにいたいから、ここにいさせて)
そう願っても、誰が叶えてくれるものだろうか。
シトリンの、小さな命の火種は、徐々に冷たい風にかき消されていくようだった。
それでも、アミルには全く気づかせない。この精神力は生半可なものではないとリベルは思う。
しかし、間近で様子を眺めるようになってから、あと一週間も持たないかもしれないと思えるほどシトリンが小さく見えた。
頭にちらつかせ、そしてすぐに首を振ってその思いを断ち切る。
(考えてはいけない。シトリンはずっとここにいていいんだから。連れて行かないでおくれ)
そう毎日願わずにはいられない。
朝起きてシトリンと目が合うと心底ほっとする。
そして、夜におやすみなさいの挨拶をするとたまらなくはらはらしてしまう。
また、笑顔でおはようと言えるだろうか。
暗がりの中では、心も闇に染めていく。悪いことしか考えられなくなる。
それを振り切るように目を閉じる。こんな生活の繰り返しだった。
シトリンは今も黙々と編み物を行っている。
二週間前から取りかかっていた編み物は、やはりペースは遅いが着実に完成へと向かっていた。
今は歩くことも苦痛なため、寝ている時以外はほとんど椅子に座って編み物を行う習慣になっている。
アミルもシトリンと初めて会った時の様子からこれが日常と思い、特にこの家に住むようになってから外へ出るような活動的な行動をとることもなかったため、それを不思議に思うことはないようだ。
アミルが三度市場へ出かけた日、シトリンの体力には既に限界がきていた。ただ、荒い息を吐きつつ手元は必死に動かし続ける。
「そろそろ休憩にしたらどうだい。お茶を入れるよ」
リベルが立ち上がりながら休息を促す。
だが、いつもならそれに従うシトリンが、今日は違っていた。アミルがいないため、顔の血の気のなさを隠そうとはしないが、ひたすら手を動かし続ける。
「無理をするとだめだよ」
カップに紅茶を注ぎながらの注意も今日は聞く気がないらしい。
ぶんぶん。
首をふって編み物を続ける。
初めての作品は、鮮やかなクリスマスカラーのマフラーだった。長さはまだもう少し必要だが、完成まではそう時間はかからなさそうだ。
「早く……完成させたいのかい……」
リベルは思うままにさせていようと思った。
忠告を聞かないと言うことは、それなりに理由があると思ったから。
その理由として頭に浮かんだことは、もう思い出さないようにする。
ただ、今は手伝いに徹することしかできなかった。
悔いの残ることは、させたくなかった。
やがて、あと少しでアミルが帰ってくるという頃にマフラーは完成する。
常に痛みが走るつらい体なのに、その瞬間は顔をほころばせ、大きく手でリベルに合図を送った。
「とうとう……できたんだね」
やはり初めての作品ということもあり、お世辞にもきれいな出来とは言えないが、編み物の師匠としては満足の行くものとなった。
一編み一編みに心を込めて、大切に作り上げた緑と赤のチェックマフラー。
この作品の行き先は、もちろん。
「間に合ったね」
言葉は少ないが、重みのある褒め言葉。
「いい……出来だよ。大丈夫。さぁ、少しの時間でもいいから、横になっていなさい」
ベッドへ促す。
今度はシトリンも素直に従った。マフラーを胸元に抱えて。
度々苦痛に顔をしかめることもあるけれど、寝顔も微笑みをたたえていた。
互いに夢中になっていたために気がつかなかったが、今日は今年一番の冷えだった。
時間を延ばすことはできないけれど、最後に、わずかな願いだけを実現させてくれるのかもしれなかった。
そのための準備は、着々と進んでいるようだった。
「ただいまー。シトリンいる?」
ドアを開けて開口一番、アミルはシトリンの姿を探す。
暖炉の前の椅子に腰掛けて、微笑んでいるのを発見すると、
「外、行こう。今日ね、すごく寒いんだけど、だからかな。雪がすごく降ってるの。隣町とか、山とか行かなくても、見られるよ」
ドアを大きく開ける。途端に冷たい風がどっと入ってきて空気が揺らいだが、寒さを忘れ、シトリンは外の光景に一瞬見惚れることになった。
外が……全て白いのだ。
ここの村は雪が積もることが滅多にないというのに。
通常、雪が降ることはあってもすぐに解けてしまい、積もっているのを見るためにはこちらから出向かなければならなかった。
全てが白のベールに覆われ、そして、空からふわふわしたものが落ちてくる。
これらが地面に落ちて、重なって、今の風景を形作っているのだと思った。
初めて見たのだが、アミルが絶賛する理由が完全に理解できる。
実際、シトリンもこの光景に何がしかの感情を持たずにはいられなかったのだった。
二人はリベルを見る。
「行っておいで。ただ、寒いからすぐに戻って来るんだよ。私は暖かいものを用意しておこうね」
実際、シトリンをこの寒さの中へ出すのは危険だったが、リミットはもうすぐだということに
気づいていたし、雪を見ることは望みの中の一つだった。
リベルの、今ではもうほとんど使わなくなってしまっていた雪色の上着を取り出す。それをシトリンに着せてあげつつ、優しく見送る。
扉が閉まった後、あふれてきた涙をエプロンでぬぐう。そして、暖かい夕食作りに取りかかった。
雪で冷えきった体が一口で温まるような、優しい口当たりのミルクシチュー。
クリームがとろとろしてきたのをかき混ぜながら、二人が食べているのを想像して顔がにこやかになる。
だが、必死に考えないようにしつつも、気がかりな思いは払拭できない。
そして、たいていこういった予感は当たるようにできているのだ。
「……ぁちゃん」
遠くから声が聞こえたような気がした。
「ばあちゃん!」
予感を頭にちらつかせながらも急いで火を消しドアへ向かい、扉を開ける。
そこには、雪に負けないくらい顔を白くしたシトリンを背負ったアミルがいた。
「シトリン、倒れちゃったの! 早く、ベッドベッド!」
うろたえたアミルと一緒に居間のベッドへ向かい、横にさせつつも、
「とうとう……来てしまったね……」
リベルは覚悟を決めなければいけなかった。
「どうしちゃったのかな……」
ずっとベッドのそばで寝ている病人の顔を眺めながら、思わず口をついて出てしまう。
アミルにとってはずっと元気な姿を見せていたシトリンが急に倒れるのが信じられなかったのだろう。
それに昔の自分を重ねながらも、今が話時だろうとリベルは決断する。
「うそ……。シトリン、病気で、もう治らないの……? しかも、これが私と初めて会った時からそうだったなんて……。どうして言ってくれなかったのさっ!」
悲しみと、痛みが混じったなんともいえない表情。目からこぼれる涙をぬぐおうともしない。
両手のこぶしを硬く握り締め、ふるえている手。
予想通りの反応に胸が苦しくなりながらも優しく諭す。
「……耐えられそうになかったからだよ。今と同じような顔を、シトリンの前でするつもりだったかい? いくら隠そうと思ったって、出るもんなんだよ。特にシトリンには……すぐにわかってしまうもんなんだよ。それはあの子の願いじゃなかった。だから黙ってた」
一瞬シトリンの方を見る。
アミルも祖母をじっと見つめる。
「確かに……私は上手くできないと思うよ。でも……」
目を閉じ、ゆっくりと一回だけ首を横に降る祖母。
「今は……見ていてあげましょう。これから旅立っていく、あの子を」
アミルはいつの間にかスケッチブックを持ち出していた。
ベッド脇に置かれているランプによって、煌々と照らし出されているシトリンの顔を、記録に残すように絵にしようと思ったのだ。
ペンを走らせ、少女の顔を描いていく。
それは線がぐちゃぐちゃで、ぎりぎり人間の顔に見えなくもないといった絵だったが。
描くことでアミルの心の中にも、しっかりと、消え行く少女の姿を焼きつけておきたかった。
描きつつ、頭の中で初めて出会った時のことを思い浮かべてみる。
食事の後、体を洗いに行った時……。
あの時、シトリンの異常なほどの体の細さに驚愕した記憶はある。アミルも痩せ気味だが、少女はそれ以上だったから。
当時はしばらく食べていないからだと思った。だが、それは違っていたのだった。
気づかずにいた自分が憎らしかった。
寝ている少女の顔は、青白い。
時々、白さを通り越して透き通ったような印象も受ける。
それを首をふって考えないようにし、更にペンを走らせる。
だがしかし、十歳の少女は徹夜に耐えたことがない。幾度か舟を漕ぎ始め、はっと気がつき、両頬を叩いて身を引き締める。
隣では、リベルが既に椅子に座ったまま眠っていた。
アミルはなんとしてでも起きていようと思う。
長い、長い夜の時が流れて行った。
しばらく経った後、シトリンは目を開けた。
視界が暗転してから、どのくらいの時間が経ったのだろう。
外は明るく、眩しくて目を細める。
もう、目覚めることはないかと思った。
ずっと暗闇の中にいるものと思った。
しかし、まだ時間は残されているようだ。
それは、本当にわずかしかないけれども。
手の辺りに少々の重みを感じ、そちらの方に目を向ける。
アミルが、両手を枕にして突っ伏したまま眠っていた。
傍らには、一冊のスケッチブック。
シトリンが言葉を話せないとわかった時に、手渡されたものだった。
その隣ではリベルが椅子に寄りかかって眠っている。
ずっと看病をしてくれていたのだろうか。
とすると、アミルにも病気ということがわかってしまっているのだろう。
雪を見に行って、その雪に感嘆のため息を漏らしつつも、体力は最後まで堪能させてくれなかった。
倒れてしまった時点で、隠し通すのは不可能と考えられた。
目が覚めたら、真っ先に自分のことを心配してくれるだろう。それはそれで嬉しいけれど、やはり悲しくもあった。
だが、シトリンは今まで普通の少女として過ごすことができた。
身寄りがなく、生活するのには、普通と違うことをしなければ生きては来られなかった。
それから開放されて、病魔におかされ続けてはいたものの、幸せに過ごせたこの時間は、シトリンにとって唯一の、心から笑えた瞬間だった。
確かに、この数週間は、輝いていられたのだった。
心底アミルとリベルの二人を感謝せずにはいられなかった。
最後に、心地良い夢を見られた。
これからは違うところへ行ってしまうけれど、最期にいられたのが、ここでよかった。
シトリンは、アミルが起きないようにそうっと傍らのスケッチブックを手に取る。
ページをぱらぱらとめくっていくと、最後のページに人間の顔らしきものがあった。
お世辞にも上手いとは言えない。線もぐちゃぐちゃで、ただ、丸や曲線が描かれているだけ。
ただ、それを形作っているものは、頭の上のリボンらしきものでなんとなく理解できた。
シトリンの顔だった。
それを思った時、思わず笑ってしまう。そして、見終わった後に、一つの考えを思いついた。
そうっと、元あったところにスケッチブックを置く。そのわずかな重みの変化で、アミルの表情が微妙に変わる。
……うぅーん……。
小さな寝言を呟き、そして一瞬体が揺らぐ。
……がばっ!!
今度は一度に顔を上げ、起きあがった。あまりにも突然に素早く動き出したため、見ていたシトリンの方が驚いてしまう。
「寝ちゃったんだ……。絶対にずっと起きていようと思ったのに……。でも、よかった……。シトリン、おはよう」
目をこすり、朝の挨拶をする。その目は充血して、赤い。
それから、夜に何度も目をこすったのか、まぶたが少々腫れぼったくなっていた。
体がほんの少しでも動くうちに。
シトリンは、今まで肌身離さず身につけていたシトリントパーズのペンダントを外し、手に取る。そして、そうっとアミルの首にかけた。
胸の部分で、朝の光を受けて輝きを増す石。
「……くれるの?」
うん。一度だけ頷くシトリン。
「……ありがとう」
ペンダントの石を見ながら、初めてこれを見た時のことを思い出す。
(その時は、うかつに触ろうとして、シトリンに手を叩かれたんだっけ。そんなに大事なものだったんだって思ったっけ。そのペンダントをもらえたということは、私にちょっとでも心を開いてくれてるんだよね)
顔をほころばせ、シトリンの頬をなでた。
もう、かなりつめたい。
部屋の中は、相変わらず暖かいのに。
シトリンの体温は、徐々に下がりつつあった。
「ばあちゃん、起きて起きて。シトリン、いるよ」
隣の椅子でこっくりこっくりと舟を漕いでいる祖母を起こす。
リベルもすぐに目を覚まし、シトリンを見る。
シトリンは、にこやかに微笑んでいた。
痛みはもう感じられなかった。
感覚が麻痺してしまったのか、もう現実と裏の世界との狭間に来ているのか、自分でもよくはわからない。
ただ、二人がぎゅっと強く手を握っていてくれる、その感覚だけ、残っていた。
もう、時間がない。だけれど、シトリンはそれを完全に受け入れた。
瞳をゆっくりと閉じる。
「まだだめ……。行っちゃだめだよう」
アミルの耳当たりのいい声が聞こえる。しかし、その声はもう遠くにいるようで、かき消されそうなくらい小さい。
「いかせてあげなさい。今までだって、ずっと無理をしてきたんだから。それよりも、今は笑顔で見送ってあげなさい。それがこの子の一番の望みなんだよ」
リベルの声。血の繋がった祖母ではないけれど、ほんの少しの付き合いだったけど、シトリンにとっては本当のばあちゃん。
今まで、やりたいようにさせてくれ、必要な時はサポートしてくれたばあちゃん。
(最後まで、私の願いを叶えてくれている。それを見てから、いこうかな)
重いまぶたを開けてみる。
そこには、満面の笑顔の二人。
負けずに、シトリンも笑顔を返す。
満足だった。
(……ありがとうね)
口の動きだけで、声は聞こえないけれど、感謝の言葉を。
そして、今度こそ最後に、瞳を閉じる……。
「ばあちゃん……。シトリン、幸せだったかな。ここにいてよかったって思ってもらえるかな」
一通り泣き叫び、顔中ぐちゃぐちゃになりながらも、リベルを真っ赤な目で見つめる。
リベルは、シトリンにもらったというペンダントの石を見続けていた。
友情のシンボル、シトリントパーズ。
(これをくれたということはね、アミル、あなたを一生の友達だと認めたってことだよ……。心を開かせてくれた。最後まで笑っていられた。それは全部、アミルのおかげなんだよ……)
言いたいが、リベルも孫と同様、散々泣き続けて疲れて、上手く言えない。
「……見たでしょう。シトリンの最後のあの笑顔を。私は、そうだったって思いたい。少なくとも、私はほんの少しの時間だったけど、あの子といて幸せだった。……そうでしょう?」
祖母の言葉を受け、ペンダントの石がそうだとばかりにきらりと輝く。
アミルはその石をぎゅっと握り締めた。
「このペンダント、見るたびに思い出すからね……。私、絶対に忘れない。シトリンは、どこかで私達を見てくれてるんだよね」
リベルは重い腰を上げ、シトリンの特等席のテーブルへ向かい、そこに乗っていたマフラーを持ってきた。
「ほら、これ……。シトリンの最初で最後の作品。これは……、アミルのものなんだよ。一編みずつ、丁寧に編まれたマフラー。上手くはないけど、素敵でしょう。出来上がった時、たくさん褒めてしまったよ」
アミルはマフラーを受け取り、強く抱きしめる。
「シトリン……ありがとうね。大切に使わせてもらうからね」
そうして、はっとしたように呟く。
ベッド脇へ向かい、スケッチブックを持ってくる。
「私ね、寝ているシトリンの顔を絵に描いたんだ。これ、飾っとこうね」
ぺらぺらとページをめくる。
一番最後のページの、シトリンの顔。
他人が見ればまず間違いなくわからないほど下手な絵だが、二人は笑顔の少女をたやすく思い出すことができる。
そこのページを破ろうとした時、端の部分にアミルが描いたものとは違うものが書かれていた。
それを見て、ようやく止まったかと思われた涙が再び止まらなくなる。
「ばあちゃん、見て……。字……書けるんじゃない……っ……」
シトリンの絵のすみっこに、小さく、字が書かれていた。
アミルの絵に負けないくらいぐちゃぐちゃで、字体がふるえているために、読むにはじっくりと解読を試みないといけないが、これは確かに、文字だった。
『あみる、りべる、ありがと。たのしかった。わすれないよ。わたし、しあわせ。うれしい』
思いつく限りの、言葉。
文字も、しばらく書くことがなかったのだろう。
所々に誤字が見うけられたが、なんとか読むことができた。
それから、最後に、こう書かれていた。
『なまえ、ありがと。わたし、すき。でも、あみるしりたい。だから、かく』
以前、二人が唯一した、シトリンへの質問の答えだった。
『わたしのなまえ、アンジェだよ』
「いい……名前だよね?」
アミルがぽつりと呟く。
「そうだね……」
その意味は、無邪気。そして、違う意味では天使をさす。
シトリンはその本名の通り、天使になったのかもしれない。そうなってもおかしくないほど、シトリンはそれにふさわしかった。
高い高いところから、二人を見てくれている、そんなことがあるだろうか。
痛みなどから開放され、本当の微笑みを浮かべて走りまわっているだろうか。
二人は、天使になったシトリンの姿を想像してみる。そして、しばらくその文字を見ながら、動くことができなかった。
ただ、首からぶら下がったペンダントだけが、明るく煌くのみだった。
心の中にある輝きを
うまく外にあらわせずに
もどかしくなること、ありますか?
でも大丈夫。
あなたの原石を
煌きがあふれ出るように
丁寧にみがいてくれる人が
いつか必ず見つかるはずだから。