シトリンがアミル達の家に住むようになってから、3日が経過していた。
この家での暮らしにも少しずつ慣れてきたようで、初めはどうもぎこちなかった動作も、家の中にいる時は徐々に改善し、今はもうアミル達とさして変わりない。
表情の変化も、よく見ていないと気づかないことが多いが現れつつあった。
この村に辿り着くまで、どのように過ごしてきたのかはやはり窺い知ることはできないが、現在は普通の女の子として普通の生活ができるようになっていた。
その、普通であることをとても幸福に感じながらも日々を生きる。
「それじゃ、行って来るね〜」
アミルの生き生きとした挨拶が聞こえてくる。
今日は隣町の市場へリベルの作った編み物作品を売りに行く日だった。
一週間に一度、隣町で大きな市が開催される。そこでの販売利益で家計を賄っていた。
足りなくなった場合は、アミルが短期アルバイトに出かけたりする。
もちろん裕福ではないが、幸運なことに丁寧さとそのデザインが評価され、市ではそこそこの人気を誇っていた。
「今日も喜ばしい出会いがありますように。……気をつけて行っておいで」
表へ出てリベルとシトリンが見送りをする。
かなり寒くなってきているため、カーキ色の上着を羽織ったアミルが二人を見る。ちなみにこれも祖母の作品である。
「ばあちゃんの心をこめて作った編み物、なるべく高く売ってくるよ。おみやげ期待しててね」
後ろを向き、何度か振り返りながら村の街道を歩いていく。
シトリンも、声をかけることはできないが、手を大きく振って無事を祈る。
それに応えるように、アミルも手を振りつつ道を急ぐ。
留守を預かる二人は、視界から見えなくなるまでずっと見続けていた。
隣町へは、徒歩で一刻ほど。そんなに心配する距離でもないが、見送る時はいつも不安になってしまっていた。
家で家事をしながら編み物を作るのがリベルの仕事。
水汲みをはじめ、買い物や、リベルの作品を市に売りに行ったり、外へ出るような作業はほとんどアミルの仕事。
というように、ここの家では役割分担がはっきりとしていた。
そんな中、シトリンは自分がいまだに何もしていないことをひそかに気にし続けていた。
アミルを見送った後、家に戻ろうとするリベルの腕をつかみ、顔を見上げる。
「どうしたんだい?」
リベルの腕を引っ張り、家の中に入り、扉を閉めてから、テーブルの上の編み物セットを指差す。それから、自分を指差す。
両手を動かし、編み物の真似をしてみる。
「……もしかして、やりたいのかい?」
こくこく。
深く頷く。
できるかどうかなどわからなく、ましてや売り物になどは全くならないかもしれないが、何もしないでいるのは嫌だった。
アミルやリベルの多少の手伝いはするけれども、お世話になっている二人のために何かをしたかったのだ。
「それじゃ、簡単なものからやってみようね。初めは上手くいかないと思うけど、練習すれば誰でもできるようになるよ」
こうして、シトリンはリベルの手ほどきを受けて編み物の練習をすることになったのだった。
昔、似たようにアミルからも編み物を習いたいと言われたことがある。
今はあまりしないが、腕は悪くないと思っていた。
アミルは家にいてじっとするよりは色々と動いていたいようだったが。
その、アミル用の編み棒を使って慎重に糸を編み合わせていく。
それでも手元が狂い、よく編み目がごちゃごちゃになり、混乱して手が止まる。
リベルはそれに気がつき、編み目を丁寧に直し、またシトリンに手渡す。
これが、途中で休憩を取りつつもアミルが帰ってくるまで続いた。
「ただいまー」
夕方、日も傾きかけた頃にアミルが戻ってきた。
行く時に持って行った編み物は、もともと数は少ないものの全て売れたようだ。
外はすっかり冷えきっているようで、言葉を話す息も白くなっていた。
「今日はすごかったよ。やっぱり寒くなってきてるからだね。いつもよりもすごく高い値段で売れたの。だからこんなのも買ってこられちゃった。はい、おみやげ」
家に入り、食料の他にこげ茶色の紙袋をテーブルの上に置く。そして寒い寒いと呟きながら、暖炉の前に進み身体を暖めた。
明るく燃える暖炉の火は、冷えきった身体を一瞬にして暖める。
上着を脱ぎ、リベルから暖かい紅茶が注がれたカップをもらい、ふうふう吹きながらそっと飲む。
「ふぅ〜、おいしい〜。しあわせ〜。特に今日はいい日だったから余計にね」
両手を上にあげて伸びをしながらあくびをする。その時に、必死に編み棒と格闘しているシトリンが目に入った。
「……あれ、シトリンも作ってるんだ。なんだか懐かしいなー。これ、私の編み棒でしょ。作らなくなってからかなり経っちゃってるから、私はもう全然作れないけど」
シトリンがアミルを見て緩やかに微笑む。そしてまた続きに取りかかった。
リベルは夕食を食器に盛り付けていたところだった。
今日の夕食は野菜の炒め物。
「シトリンは素質があるよ。アミルもなかなかだと思ったけど、やる気が全然違うわ。これもずっと朝からやってるんだよ。……ほら、二人とも、準備ができたから食事にしなさい」
三人で暖かな食事は、やはり市に行って疲れて空腹感が増したのか、アミルの独壇場だった。
今日のメニューは三杯おかわり。それでも動き回っているからか、太ることはない。
一方リベルとシトリンは少ない量だった。これはいつものことなのだが、シトリンの食事の量は通常の年齢の人と比べて格段に少ない。
空腹でないはずがないのにお皿から食物が減っていかない。いつも少ない量を時間をかけて食べているといった感じだった。
アミルは小食なんだなぁくらいにしか考えていなかったが、リベルはシトリンが食事を摂る様子をじっと見つめていた。
食事後、今日アミルが買ってきたおみやげを見てみることにした。
茶色の紙袋に入っていたものは、幾種類かの毛糸などの編み物の材料と二つのリボンだった。
編み物道具をリベルに渡し、残りのリボンを手に取る。
オレンジがかった黄色と、深い緑。色は違うが、柄は同じものだった。
「おそろいだよ。シトリンは黄色の方ね。これはシトリンにぴったりだなと思ったの」
ペンダントの石の色、髪の色、そして、徐々に輝いてきた瞳の色。
シトリンを表現するにはやはり黄色が不可欠だった。
一方アミルは緑色が大好きなためこの色となった。
シトリンの髪の毛にリボンを結ぶ。それと同時にアミルもリベルから同様に結んでもらう。
机から小さな手鏡を持ってくる。そして並んで鏡をのぞきこんでみた。
カチューシャのように、頭上で結ばれたリボン。
「うん、可愛い可愛い。二人とも可愛い」
腕組みをしてうんうんと頷くアミル。かなり満足げな様子だ。
シトリンはぼうっとした目をしながら手で頭上のリボンに触れる。
いつもと違った印象に目をしばたたかせ、アミルのリボンを眺めてみる。そして、またかすかにではあるが微笑んだ。
二人は三日付き合っていて、シトリンの感情、行動についてはかなり理解ができるようになっていた。
普通の人ではかすかな微笑みでも、シトリンにとってはそれは満面の笑みだ。
「気に入ってもらえた? それならとっても嬉しいよ。でも、ほんとにこのリボンはシトリンにぴったりで、絶対に買って来なくちゃって思ったんだー」
食器の後片付けに取りかかったアミルがリボンを見て微笑む。
リベルも立ち上がり、水瓶から水をすくい、食器洗いを始めようとした。
シトリンは再び編み物の続きに取りかかる。
食器を洗い場に置いて居間に戻ったアミルは、再び暖炉の前に行き、軽くまどろむ。目をつぶって少しうとうとしかけていたが、ふと目を開けシトリンを見る。
「……あ、そうだった。シトリン、雪って見たことある? この辺りじゃあまり降らないけど、そろそろ時期だって市に来てた人が言ってた。あとちょっとしたら降るかもしれないから、そうしたら見に行こうね。山まで行けば積もってるのを見られるかもしれないし」
急に話しかけられたため、編み物に必死に取り組んでいたシトリンがびくっと大きく反応する。
思わず手を止め、アミルの方を見る。だが、表情の変化は全くない。少々首をかしげるような仕草をする。
「もしかして、雪、知らない? 冬にしか降らなくてね、つめたくて、積もると辺り一面白くなるの。とってもきれいなんだよ。これは絶対に見に行かないといけないね。雪が降ったら一緒に見に行こうね」
シトリンは雪を見たことがないらしい。
アミルは幼少の頃、その時はまだ自分で市に作品を売りに行っていたリベルに連れられて雪を見に行った事がある。
初めて見た時のあの不思議な浮遊感。
ふわふわと、だけれど静かに落ちてくるやわらかな雪。
しばらく何も言えずに見ていることしかできなかった。
夕方の、ほんの少しの光の差し込みにも鮮やかに色を変える雪たち。
少しの風にも反応し、軽やかに踊る。
自然のものは何が起きるかわからず、その神秘さに幾度も感動を覚えた。
この思いをシトリンにも感じてもらえればと思う。
こくこく。
結局何なのかよくはわかっていないけれども、アミルがそこまで言うのなら本当にきれいなものなんだろうなぁとシトリンには思えた。
(いつか見られるのなら、是非見てみたい。……けど……)
瞳の輝きを少しぼかす。表情が暗くくもる。
だが二人には気づかれないような、ほんの一瞬のことだった。すぐにその顔を微笑みに戻す。
「うん。絶対に見に行こうね」
アミルもその時シトリンの表情はどうなるかなぁと想像しながら、早く雪が降らないかと待ち遠しくなる。
その様子を、リベルはキッチンで洗っている最中のお皿と布を手に持ち、微笑ましく眺めていた。
暖炉の暖かな光が差し込んで、シトリンのネックレスが煌々と輝いていた。
「行ってくるねー」
アミルの元気な声が辺りに響く。
またリベルの作品を売りに行く市の日がやってきた。
こういう日はずっと天気が良ければいいのだが、今日は灰色の雲に厚く覆われてしまっている。そのため薄暗く、視界も悪くなっていた。
もしかしたら、雨か雪が降るかもしれない。
念のため、アミルも今日は傘を持ち、いつもよりも更に厚着をしていた。
「天気が悪いから、気をつけて行って来るんだよ。それと、夜は早くに暗くなってしまうだろうから、なるべく早めに帰っておいで」
神妙な顔でリベルが見送る。
その横で雰囲気が移ってしまったのか、シトリンもかなり青ざめた表情だった。
「大丈夫大丈夫っ。今日も完売目指して頑張ってくるからねー」
そう言い、売り物の入ったアミルの背中以上に大きなリュックを背負って歩き出す。
シトリンが一歩前に出て大きく手を振る。
こうしてまたアミルが視界から見えなくなるまで二人は見送りをしていた。
だがしかし、アミルが元気に出発してからもシトリンの表情が変わることはなかった。先程からずっと青ざめた顔のままだ。心なしかふるえているようにも見える。
「シトリン、どうしたんだい? アミルなら大丈夫。今までもこのくらいの天気でもずっと無事に帰ってきていたから」
その様子に気づいたリベルが心配して話しかける。
微笑みを返すシトリン。
その奥底に、言い知れない儚さを感じ、急にリベルは怖くなった。
笑顔だけれど、とても弱々しいものを見てしまったような気がしていたのだった。
「シトリン……?」
笑顔が真顔に変化する。
そしてまず、二人して家の中に入り、テーブルに腰を落ち着けた。
頬杖をしつつ、向かいに座ったシトリンの目をしっかりと見つめながらゆっくりと喋り出す。
「これはあくまで私の推測でしかないけど……。あなた、自分でもう気がついているんだね。体がどこか……」
話しかけられたその内容にシトリンは顔を急にしかめる。核心を突いた質問に思わず反応してしまったのだ。
すぐに顔を笑顔のそれに変化させるが、ずっと瞳を見続けていたリベルにはさすがにごまかしはきかない。
「やっぱりそうかい……。初めて会う前からわかっていたんだね。なんとなく、様子を見ていてそうかもしれないとは思っていたよ。……同じ症状の人を見たことがあったからね。だけど、あまりにも隠そうとするもんでね……」
リベルは過去に大きな失敗をしてしまったことがある。
それは、娘の病魔に最後まで気づかなかったこと。
不治の病だった。だが、それをこらえつつ仕事をしていた娘の表情の裏側に、病に苦しむ姿があったなどとは思えなかったのだ。
このことで娘を亡くしてからは、まわりの人々のかすかな変化にもすぐに気づくようになろうと
誓っていたのだった。
今のシトリンは、あまりにも似すぎていたのだ。必死に病気を隠して笑顔で通し続けていた、あの時の娘の姿と。
そして、おそらく病気も同じ……治療法のない病。
ぶんぶん。
大きく首をふる。しかし、その意思は完全に偽りだと言うことが、その様子から容易に判断できてしまう。
先程からの青ざめた表情が更に悪化し、蒼白状態にまで発展しつつあったからだ。
「ほら、まずこっちに来て横になりなさい。ベッドでゆっくり寝て、しばらく安静にしていなさい」
ぶんぶん。
目を閉じ、再び首をふる。
しばらくずっと首を動かし続けていたのだが、いったん止め、そうっと目を開けて、胸の辺りに手を当てる。
そうしてもう一度、今度は一回だけ、首を横にふる。その顔は、笑顔だった。
心の奥の、なんとも言えない悲しさを拭うことはできないけれど、シトリンは静かに微笑んでいた。
「……私は一度罪を犯してしまっているから、気持ちはとてもよくわかるんだよ。前にも似たようなことがあったのだけど、その後に、必死に考えた。どうして最後まであの子は笑っていられたんだろうって」
居間のすみにあるリベルのベッドまで連れて行き、横にさせる。
シトリンはあくまでも嫌がり、暖炉の前の小さな机の上に乗っている編みかけの編み物に手をかけようとしていたが、それを力づくで阻止する。
すっかり体の弱っているシトリンには、たとえ老人といえどリベルには勝てない。結局、話を横になって聞くしかできなかった。
「あの子は、人に心配をかけさせたくなかったという優しい心を持ってくれていた。それと、もう一つ……。最後まで自分らしくありたいと願っていた。 治らない病気であるなら……。好きな人達に囲まれて、好きなことをして、最後まで過ごしたいと考えていた」
シトリンに毛布をかけて言葉を続ける。
「あなたもそうなんだろうね。昔に何があったのかはわからないけど、ずっと一人でいて、でもアミルという友達ができた。アミルに心配はかけたくない。それと同時に、最後までアミルと友達で、普通の女の子のように過ごしたいと思っているんでしょう。だから、アミルに病気のことがわかってしまうのを恐れていた。……違うかい?」
リベルの言葉一言一言が、全て的を見事に突いていた。
シトリンも始めは抵抗していたが、話が進むごとにそれを弱めていく。
全て、そうだった。
病魔はアミルと出会う前からシトリンを包み込んでいた。
何をしていても倦怠感、頭痛が抜けきれない。ただ歩くのにも一山分登山をした時のように体力を消耗する。
目の前に大好物があっても食欲が全くわかず、受け付けない。そして、時々起こる、耐えきれないくらいの体の痛み。
自分でも気づいていたのだ。
シトリンの今までは、もう思い出したくもない。ようやくそれを抜け出せたと思ったら今度はこの病気。
もうすっかり諦めて、体力も何もなくうずくまっているところにアミルがやってきて、もう少し頑張ってみようと思うようになった。
初めて普通の女の子らしい暮らしをすることができるようになったからだった。
今までに一度も味わったことのない幸福感が溢れ出してくる。
このままで最後まで生きたい。そう願い続け、今まで生きてきたのだ。
アミル達の家に住むようになってからの日々は、今までの人生以上に密度の濃いものであった。
すっかり抵抗のなくなったシトリンの腹部を毛布の上から軽くぽんぽんと叩く。
「あの子は怒るだろうけど、私は意思を尊重したい。私はアミルには病気のことは言わないし、これからも接し方は変わらない。だから、せめて私一人の時だけは、無理をしないでおくれよ。苦しい時に苦しい表情をしてもいい。それは当たり前の感情だから。アミルといる時にとびきりの笑顔でいられるように、今はゆっくり寝ていなさい。帰ってくる前には起こしてあげるからね」
そうして今度は頭を優しくなでる。
そこにはアミルからもらったリボンがつけられている。シトリンもそのリボンに触れる。
瞳はじっとリベルを見つめる。そうしたまま、動いているのかいないのかよく見ていないとわからないくらいの細かさでシトリンは頷いた。
目を閉じる。そこにはうっすらと涙が浮かんでいるようにも見えたが、目をぎゅっと閉じていたためどうなっていたかはわからなかった。
シトリンが完全に眠りについた頃、起こさないように胸につけているペンダントを毛布から取り出す。
部屋の薄暗さの中にも負けない、辺りを照らすような輝きを見せるシトリントパーズ。
少女の頭をなで続けながらリベルは呟く。
「おそらく自分で気づいていないだろうけど、シトリンは『友情』のシンボル。だからこそアミルが引き寄せられたのかもしれないね。……欲しかったんだろうね。心から信頼できるような友達が。今までは、ずっといなくて、一人だったんだろうね」
そうして立ち上がり、自分の編みかけの作品を手に取り、作業を始める。
もちろん視界にはシトリンを入れて、もし何かあってもすぐに対応できる状態にしておく。
「偶然か必然かわからないけれど……。これで思いが叶ったと言えるかい? ……ファル」
シトリンは横になって多少落ち着いたのか、穏やかな寝息を立てていた。
その寝顔と、自分の娘の顔とをやはり重ねずにはいられなかった。
夕方近くになって、アミルが帰ってくる。
「今日も全部売れちゃったよー」
寒さと嬉しさで頬を紅潮させながら、勢い良く扉を開けて入ってくる。
そこには、病気などとは微塵も感じさせない表情で、にこやかに微笑むシトリンがいた。
それこそ、あとわずかの時間しか残されていないというのに、それに対する悲しみよりも、今の幸せの方が勝っていたのだった。