昼休みの教室は騒がしい。
昼食をとった後、午後からの授業が始まるまでののんびりと過ごすことができる時間。
校庭へ出てサッカーなどスポーツをする者もいれば、廊下や教室で談笑する者など、それぞれが思い思いに過ごしていた。
そんな中で、樋山深(ひやましん)は窓辺の自分の席で読書をしていた。
昼時の暖かい光が当たって心地良い。それを感じながらゆったりと本に集中していたのだが。
「なぁ、深はどう思う?」
友人の声によってそれが途中で遮られた。
話しかけられた方を見てみると、深の二つ隣の席で友人の平松圭司(ひらまつけいじ)たちが集まっている。
高校3年生の平均的な身長に、人の良さそうな顔。髪の色は本当は真っ黒だが、ほんの少しだけ茶色く染めていた。
「なんの話だよ」
深は今までの話を全く聞いていなかったため、突然話を振られても答えることができない。むしろ、読書を邪魔されて少し気分を害しているようだった。
「何の話って、隣のクラスの木村さんの話だよ」
「木村さん?」
深には全く意味がわからなかった。手に本を持ったまま、ぽかんと圭司たちを見ることしかできない。
女子ほどではないが、男子もたまには恋などを話題にすることもある。誰が可愛いとか、誰が誰に告白をしたとか。
深はいつもこういう話は聞き役に徹するばかりだった。話題に興味がなかったというのもあるが、深はまだ恋をしたことがなかったからである。
「隣のクラスの木村未知(きむらみち)さん。かなりきれいで性格もいいってずっと前から評判なんだよ」
いつになく熱心に語る圭司を見ても、特に何も感じなかった。
「ふうん」
素っ気なく返事をする深。目線は既に本へと向かっている。
「おいおい……。おまえはほんっとうにいつもマイペースだなぁ」
圭司は呆れた表情で、目の前にいる友人たちと顔を見合わせた。
木村未知。
常に学年10番台に入る成績の良さと、体育のテストでも度々お手本に選ばれるくらいの運動神経。更に性格もそのことを誇示したりせず、申し分ないらしい。
圭司たちから読書をしながら話を聞き、そこまで完璧な人なんているのだろうかと思った。
人間、必ずどこかに欠点はあるものだ。それを補い合いながら生きていく。そんなものだと深は考えている。
実際深も、自分の無愛想さは欠点だと自覚している。
話をしていても相手が満足するような答えができないため、深と友人になろうと思う人は数少なかった。
圭司はその貴重な存在なのである。
(ま、これが俺だし、変えようとも思わないけど)
深はいつも自分の感情に正直に生きていた。
「深〜、俺は心配しているんだぞ〜」
急に深の視界から本がなくなったため、少し驚いて前を見る。いつの間にか圭司が目の前にいて、深の本を取り上げていた。
「おまえは女子が黙っていないくらいの顔をしているのに、全く浮いた話がないんだもんな」
つややかな黒髪に170センチを少し超えたくらいの身長。平均から比べると低く体格はやや細身だが、それが更に深の容姿を惹き立てていた。
密かにファンクラブもあるらしい。しかし、深には全く自覚がない。
「俺はそういうのに興味ないし」
圭司から本を取り返し、再び読みながら無表情で答える。
「それに、どうしてそんなにこだわるんだ? おまえ、彼女いるだろ」
「そりゃ、いるけどさ……。これだけ噂になってりゃ気になるさぁ」
圭司は廊下側を眺める。そこには女子のグループが何やら話をしており、その中心的人物が圭司の彼女だった。ショートカットの活発そうな可愛らしい少女だ。
「あいつも、木村さんはいい人だって言ってたんだよ」
頭をかき、少し照れくさそうに圭司が言う。
「おまえは、ここまで聞いて本当に何も感じないのか?」
深はある意味粘り強い圭司に負け、本を閉じて相手の顔を見る。
「そんなに噂になるくらい完璧な人が本当にいるのかとは思ったけど」
ようやくまともに答えてくれた深を見て、満面に笑顔を浮かべる圭司。
「……だろ? 気になるだろ?」
そして、顔を真顔に戻して深をじっと見る。
「とにかく、明日と明後日。2日連続で昼休みに図書室へ行ってみな。なんとなくわかると思うからさ」
深はいつになく強引な圭司を見て、何か企みごとがあるのではないかと思った。
「2日連続で?」
「そう、2日連続で。どうせまた明日も本読んでるんだろ? それなら図書室で読んだ方が集中できるかもしれないし。……図書委員なんだよ。木村さんは」
圭司の言葉に「何かある」と感じながらも、確かに明日も読書をするのには変わらないし、たまには騙されてみようかと考えた。
「ああ……たまには行ってみるか」
次の日の昼休み。
昼食を食べ終えた深は昨日の読みかけの本を持ち、図書室へと向かって歩いていた。
深のクラスの教室は2階で、図書室も2階。比較的近いのだが、あまり利用してはいなかった。
深は読みたいと思った本があったら借りずに買って読む人なのだ。
図書室で借りた本は貸し出し期限がある。それは当たり前のことなのだが、自分のペースでじっくり読みたいと思う深にはわずらわしいものでしかなかったのだった。
図書室の扉を開ける。狭い室内の中に多くの棚が立っており、ますます狭く感じる。
だが教室とは違い、静かで本を読むには最適の場所だと思えた。
やはりというか、図書室利用者も4〜5人ほどしかいない。
(ふうん……さすが図書室。これならゆっくり本が読めるな)
深は図書室の奥の席に座って読みかけの本を開いたが、
(そういえば、木村さんだって言ってたな)
昨日圭司に言われたことを思い出し、カウンターの方を見てみた。
カウンターは図書室内とは別室になっているが、ガラスで区切られているため中の様子がよく見えるようになっていた。
(今日はいない日なんだな)
今日の図書当番は2人いるが、両方とも男子だった。
(さて、集中するか)
深は再び持ってきた本へと目線を走らせた。
(……騒がしい)
次の日。
再び食事を終えてから図書室へ向かった深は、扉を開けた途端に顔をしかめた。
昨日の静かで快適な環境はどこへやら。今日は昨日とは違って図書室利用者が桁違いに多い。ざっと見て15〜6人はいるかもしれない。
しかも、そのうちの大半が男子だった。
(なるほどな)
室内に入りつつどうしてこのような現象が起こっているのか考えた。
今日はおそらく例の木村さんが当番なのだろう。
狭い図書室にある席のほとんどは人で埋まっていた。深は隅にある空席をようやく見つけて座る。
この状態では読書に集中できないため、本を机の上に置いて軽く伸びをする。
ふとカウンターの方を見てみると、今日の図書当番は一人だけだった。
(この人が木村さんか……。そういえばよくステージに上がっている人だな)
肩甲骨ほどまで伸びた少々茶色がかった髪の毛は二つに分けて三つ編みにしている。
色白で細身と、かなり華奢な体格の少女は、思い出してみるとよく集会の挨拶などで代表に選ばれている顔だった。
(確かに、人気があるのはわかるような気がする)
未知は深から見ても顔立ちが整っていると思えた。
更に、先程から机に向かって一生懸命書き物をしているところから見ると、図書委員の仕事もきちんとこなしているのだろう。
その様子は、普段他人に対して関心を持たない深から見ても好感の持てるものだった。
(……戻るか)
図書室にこのままいても読書に集中できないため、席を立って歩き出す。
扉のそばに掲示板があり、そこには図書当番の割り当てが書かれている紙も貼られていた。
(次は明日の放課後か)
なんとなしにその用紙を見て、深は教室へと戻っていった。
「深、見てきたかー?」
授業が全て終わり、放課後の時間になった。
帰りのホームルームが終わってすぐに圭司が深のところへやってくる。深は勉強道具をかばんへ入れているところだったが、圭司の声を聞いて顔を上げた。
「あぁ、見てきた」
「そうかそうか。……で、どうだった?」
圭司は笑顔で深の感想を聞こうとする。
「とにかく、ものすごく人気があるということはわかった」
深はこの2日間で思ったことをそのままに圭司に伝える。
「……だろ? 俺も初めて見た時は驚いたよ。木村さんのいるB組なんか、いつも大勢人がいるんだぜ」
深の素直な反応が良かったのか、圭司は深の背中をばんばんと軽く叩き、にやにやとする。
「……なんだよ」
深にはその圭司の様子がどうにも変に感じて仕方がなかった。
「深が他人に興味を持つのを見て、嬉しくなったんだよーん」
「なんだそれ」
圭司は席に戻り、自分のかばんを持ち、部活用の大きなバッグを肩に掛ける。圭司はサッカー部で、これから着替えに向かうのだろう。
「深は今日はフルートか? ほんと、いつ聞いてもすごい趣味だよ。頑張れよー」
深は6歳の頃からフルートを習っている。
同じくフルートを弾く母親からの影響だが、深は心からフルートが好きだった。
無愛想な深も、フルートを弾いている時だけは自分の感情をまっすぐに表現できるからだった。
「ああ、圭司もな」
そして、深も帰途へついた。
次の日の放課後。未知が図書当番の日である。
深は自分でも不思議で仕方がなかったが、また読みかけの本を持って図書室にいた。
さすがに放課後は昼休みとは違い、利用者は少ない。部活やアルバイトなどで時間に余裕がないのだろう。
その点が帰宅部の深には都合が良かった。
図書室内は本を紫外線から守るために、常にクリーム色のカーテンがかけられているため薄暗い。
今日は天気がいいのだが、そのために図書室内には電気がつけられていた。
本を読むには最適な空間の中で、深は読書に集中する。
そして、ようやく本を読み終えた頃には、閉館時間が迫ってきていた。深はその時間が過ぎる早さに驚いてしまう。
(もうこんな時間か)
この学校の図書室の閉館時間は午後5時。そして、今の時刻は4時40分くらいだった。
(本も読み終えたし、帰るか)
いつの間にか、図書室にいるのは深だけになっていた。
帰り支度をし、かばんを持って席を立とうとした時、
(あれ……)
図書室のカウンターの中で、未知も何か本を見ているようだった。よく見てみると薄くて大きく、横に伸びた線に黒い丸がちょこちょことついている。
(あぁ、楽譜か)
深も毎日フルートを弾くために、楽譜には馴染みがある。
未知も何か楽器を習っているのだろうか。音符の量が多く、かなり難易度は高そうに見える。
(今練習している曲なんだろうな。俺も頑張ってチャレンジするか。次のコンクールは課題曲がいいし)
しばらく楽譜を見ている未知を眺めていたのだが、その様子が急激に変化した。楽譜を机の上に置き、椅子の背もたれに寄りかかって両手で顔を覆っている。
(……泣いてる?)
未知は図書室内に人がいることに気がついていないのだろうか。両手で顔を覆ったまま、肩を震わせている。
(スランプかな)
深も12年間フルートを習ってきて、幾度かこのような経験をしたことがある。
当時は母親が深をコンクールなどに出場させていたが、何度練習しても上手く行かない時があった。
それは自分が弾きたくない曲を無理に弾きなさいと言われた時に多く起こっていた。
昔はそれでひどく自分を責めたものだが、無理に他人の要求に応えることなんてないと割り切るようになってからは単純にフルートを弾く楽しさにはまっていった。
今でも度々母親とは口論になるが、深はこの姿勢を変えたくないと思っている。
深は未知に気づかれないように、そうっと荷物を持って図書室から出る。
扉の開閉には特に気を遣った。幸い大きな音は出なかったため、おそらく大丈夫だろう。
帰り道、深は自転車をこぎ、夕方の涼しくなった風を感じつつ思う。
(やっぱり、完璧な人間はいないってことがわかった。あの人の場合は……。表面には見えないけれど、すぐ壊れてしまいそうな弱い心)
噂になるほどの有名人は、その期待を一身に受けながらも、それに応えるために自分の心を犠牲にしている。そのように深は感じていた。
(そこまでしなくてもいいと思うんだけどな)
そう思いつつも、最大限に努力をしようとしている未知のことは、素直に応援したいと考えたのだった。
その出来事があってから。深は未知のことを気にするようになった。
図書室にも通うようになった。
自分でもこの変化が信じられなかった。
今までは特に他人に対して関心を持つことがなかったのに。未知の様子が気になって仕方がない。
こうして冷静に見続けてみると、新たに多くのことがわかってきた。
未知は基本的に断ることをしない。そのために人々も頼みやすいのだろう。
そして、これは未知の努力によるものだが、いつも完全に仕事をこなしていった。
これは未知の生真面目さのためか。
(どうしてそこまで一生懸命になれるんだろう)
深は未知のことを心配していた。
人に頼り慣れている人は、頼られる側からも気にかけてもらえることが多い。
しかし、未知のようになんでも完璧にこなせると思われている人は、たとえつらくても頼ることができないのだ。
そうして、一人でいつも苦しんでいたのだろうか。
深は、そんな未知だからこそ、何か力になれるのならなりたいと思ったのだった。
(……あいつには、見事に騙されたな)
昼休み。
深は圭司に話したいことがあると人通りの少ない校舎裏へ呼び出していた。
「珍しいよなぁ。深が話しかけてくるなんてさ。ところで、何?」
圭司は相変わらずの人懐っこさで深に尋ねる。
深は校舎の壁に寄りかかって青空を眺めていた。
「あぁ」
圭司が来たのを見ると、顔だけ相手の方へ向ける。
そしてまた、空を眺めた。
「……俺、木村さんのこと、好きだって思った」
「そうか。……って、えぇぇっ!!?」
普段も大きい声なのだが、今回はその倍くらいは大きかっただろう。
深は顔をしかめ、耳を軽く押さえた。
「おまえな……声が大きいよ。まぁ、わかる気はするけどな。一番驚いているのが自分だから」
深は再び圭司を見る。
親友は口をぽっかりと開けたまま、しばらく動くことができなかった。
その表情がおかしいなぁと思い、軽く笑う。
「全く……おまえ達には見事に騙されたよ。彼女さんと、俺と木村さんのことでつるんでたんだろ?」
「……さすが、見てますねぇ」
圭司は、深と未知とはお似合いかもしれないと思っていた。
人から好かれるタイプなのに、なぜか深いところまでなかなか入っていけない。
深の場合は愛想の悪さもあったが、そんな2人が付き合ったとしたらどうなるだろうとずっと前から話をしていたのである。
「こう……上手くいくとは思わなかった」
圭司は驚きすぎて、気の抜けた表情で深を見る。
「木村さんは、困るかも知れないけど、見事にこうなっちゃいました」
深も圭司の口調を真似て、おどけて言う。
「俺でできることがあるのなら、何かしたいって思ったんだよ」
そう言った後、深はまた校舎の壁に寄りかかって、空を流れる雲を眺めたのだった。