赤い瞳がみつめるもの



 昼休み、ちょうど当番だったおれは給食食器の後片付けのため1階の給食室へ向かい、教室へ戻るところだった。
 2年生の教室は3階にある。あと少しだけ残っている昼休みをどう活用しようかと考えながら階段を登っていた時。
「きゃははっ」
 どこかの教室から女子の笑い声が聞こえてきた。
 ちょうどおれは2階まで上ってきたところだったけれど、あまりにも大きい声だったため階段のあるところから廊下を少し覗いてみる。すると、ある教室から3人の女子が出て走ってきた。3人とも大きなバッグを持っている。1階へ向かうようで、隅に立っているおれを避けて楽しそうに階段を降りていった。
 2階には3年生の教室がある。そして、先程の女子におれは面識があった。
 少し嫌な予感がして階段を登らずに廊下を歩く。一直線に階段から一番近い教室に入った。
 教室内にははじめ、誰もいないかと思った。隅で頭を抱えて縮こまっている白い頭の生徒を見るまでは。
「美琴」
 声をかけると美琴ははっとして振り返った。そして立ち上がり、教室の中におれしか生徒がいないことを確認する。
「まぁちゃん」
 そしてまた微笑んだ。何も知らない人が見れば満面の微笑みにしか見えないその表情は建前。実際はどのような感情を表しているのだろうか。
「どうしてここにいるの?」
 美琴は自分の机に戻り、椅子に座る。席は廊下側の一番前だった。だから教室のドアに寄りかかるようにして立っているおれのすぐそばに座っていることになる。
「またやられてたのか」
 美琴の問いには答えずにこちらから問い返す。先程階段を降りて行った生徒たちは美琴に対していつも攻撃を仕掛けてくる奴らだった。
「次の時間、体育なんだよ。みんな着替えに行っちゃったんだ」
 美琴もおれの質問には答えない。つまりはおれの考えていることは当たりということになる。美琴はいつもいじめを受けていることなどは誰にも言おうとしないから。
 おれも今日のように偶然見つけるまでは全く気付かなかった。美琴の様子が変だということには気付いていたけれど。
 その時に問い詰めたら小学生の時からだったと言われて愕然とした記憶がある。それまでたった一人で耐え続けていたのだから。
「だからあたしは見学なの。でも、今日は天気がいいから教室にいてもいいよとも言われたの」
 不自然なほど笑顔を崩さない美琴。反対におれの表情はますます固くなっているだろうと思う。
「あの中の1人ね、運動苦手な子がいるんだ。体育嫌いって。だからあたしが体育やらなくていいから羨ましいのかな」
 ぽつりと呟く美琴。そして頭を軽く右手で撫でる。おれが美琴を見つけた時も頭を抱えていたから、叩かれたか殴られたかしたのだろうか。
 それにしても低レベルな理由だ。頭の中は小学生のまんまかと思わず言いたくなる。
「あたしは、苦手でも体育したいって思ってるんだけどな。だからみんな羨ましいって思うんだけどな」
 頬杖をしながら言い、それからおれを見た。
「まぁちゃん、いつも言ってるけど、仕返しはだめだからね」
 美琴の声におれは手に力を入れすぎて跡がついていることに気付き、握っていた手を開いた。
「だって、大人気ないじゃない。それに、あたしは負けないよ」
 美琴がひたすら笑顔を湛えているのは、みんなに弱さを見せたくない思いがあるからだと以前に聞いた。やられて悲しい顔をするのは簡単だけれど、それをしたら負けだと。
 だから、美琴はいつも学校にいる時だけ感情を隠して笑っている。そして、体質のこともあるけれど、なるべく学校と家との往復だけで済ませ、人に会わないようにもしていた。
 ひとまず、家だけででも感情を吐露できる場所があっておれはよかったと思っている。これでおれがいじめの現場を目撃していなかったら、美琴はこれからもその事実を隠して偽りながら生きていただろう。どこへも相談したりせず、一人で苦悩していただろう。そう考えるとなんとも言えない思いが胸を渦巻く。
「さて。あたし本当は肌が痛いから教室にいようかと思ったけど、悔しいから見学行ってくるね!」
 そして立ち上がり日傘を持って教室を出て行った。
 おれは一つため息をして、自分の教室へ戻るべく階段を上っていった。


 放課後、おれはいつものように小学校の飼育小屋へと向かっていた。今日はホームルームが終わってからすぐに学校を出てきたから美琴よりは早いだろうと思う。
 自分でもなぜか早足になっているのを感じながら体育館の裏手に回る。
「仲原先生」
 そこには既に飼育係の先生がいた。今日は職員会議はないようだ。
「おう。遠野弟」
 飼育小屋の掃除をしていた先生は、おれが声をかけると手を止め振り返った。
 黒で腕と足に白のストライプが入ったジャージを着て、ふちなしメガネをかけている。年齢はもうすぐ30になるといったところで、見た目から穏やかそうな雰囲気を感じる人だった。
「毎日毎日ご苦労なこった。まぁ俺は助かるけどな」
 仲原先生は美琴のことに対してもよく相談に乗ってもらっていた。この先生だけはおれたちのこともよく知っている。
 おれたちがうさぎ小屋に通いつめる理由は、美琴がアルビノだということ。見た目がうさぎみたいだということはおれも思っているし周りからもよく言われていて、美琴にとっては仲間のようなものに感じているのだろうと思う。
 周りが自分と違う姿をしているけれど、うさぎは同じ。この飼育小屋のうさぎたちはおれが可愛いと思う以上に美琴からの愛情を受けている。
 おれが飼育係をやるようになったのも美琴の影響だった。
「あいつの様子は……相変わらずか」
 急に表情を固めた先生にそう言われる。あいつというのはもちろん美琴のことで、最近また落ち込み気味なことに気付いていたからだった。
「そうですね。でも、昔に比べればだいぶましにはなったかもしれません」
 数少ない信頼できる人にだけ見せる弱い美琴。それを見る時間は決して少なくない。それでも、おれがその事実を始めて知った頃と比べると多少減っているような気がした。
 もうすぐ中学卒業でみんなとは違う高校へ行くために、だいぶ吹っ切れてきたのかもしれない。それでも心配なことには変わりはないけれど。
 仲原先生が首を動かし辺りを見る。周りには先生とおれしかいないことを改めて確認しているようだった。
「もう、あのことは伝えたか」
 顔はいまだに真剣なままだ。おれは触れられたくないことを言われてしまって思わず俯いてしまった。
「もうそろそろかもしれない。一応努力はしているが……。こういうことはある程度心構えがあった方がいい。伝えるなら早い方がいいんだ」
 先生の視線がおれに刺さっているのがよくわかる。それだけとても大切なことなのだから。そして、おれは大切だからこそ伝えにくくて今まで先延ばしにしていたのだから。
「言いにくいんなら、俺が言うぞ」
 おれにのしかかっている重圧を取り除こうと先生が声をかけてくれる。それでもおれは美琴をいつも見ている身として一緒に背負っていこうと決めていた。
 顔を上げる。そして、心配そうに覗き込んでいた先生の顔をじっと見た。
「いえ……。おれが、言います」
 おれが美琴に言わなければならないことは、美琴に対して悪い影響を与えてしまうかもしれない。それでも、言わないことでもっと結果が悪くなってしまうのなら、言うことも必要なことなのだと思う。
「美琴もわかってくれると思いますし。……お互い強くありたいですね」
「……!」
 続きを話そうとしたおれは先生が無言でかざした手によって遮られた。耳をすませてみると、こちらへ向かって走ってくる足音が聞こえてきていた。間髪なく体育館の壁の裏から日傘を差した少女が現れる。
「先生に呼び出されて遅くなっちゃった」
 ここでは学校で見せるような偽りの笑顔ではない、本当の表情を見せる美琴。急いできたのか息が切れ切れだったけれど、すぐうさぎたちの元へ駆け寄りそのうちの1羽を抱きかかえる。
「あったかぁい」
 うさぎの白い毛に頬擦りをしてにこやかに微笑む。このうさぎは美琴の一番のお気に入りで、名前はルビー。家にあるぬいぐるみと同じ名前で、見た目もそっくりだった。
「よう。遠野姉」
 仲原先生が声をかけると、美琴がルビーを抱いたまま上を向いておれたちを見た。
「今日も無事に終わりそうです!」
 にかぁっと笑う美琴。その様子はいつものようなやわらかい笑顔ではなく、裏にもう一つ何かが含まれている顔だった。おれと先生は思わず顔を見合わせて苦笑してしまう。
「先生から呼び出し食らってたって、お前何かやったのか?」
 その苦笑のまま仲原先生が美琴をからかう。
「違いますよ。まぁちゃんと違ってあたしは真面目ですから」
 えへへと微笑みながらおれを見る美琴。
「お前なぁ。確かにあまり威張れるようなもんじゃないけど」
 そしておれがそれに答える。このうさぎ小屋前でのやり取りは、美琴だけではなくおれにとっても一日のうちで最もほっとできる時間だった。


 小学校からの、もう歩いている人がまばらになっている帰り道で美琴がぽつりと呟いた。
「まぁちゃん。あのね」
 おれは歩く足は止めずに顔だけ美琴の方へ向けた。
「なに?」
 もう夕日も地平線近くに沈みかけていて、太陽の光はほとんど届かない。周りに人も少ないためにおれと同じく前を向いて歩いていた美琴の足取りが、少しだけ遅くなった。
「あたし、卒業式で答辞を読むことになったの」
 おれは歩調を合わせながら美琴の顔を覗き込む。
「へぇ。すごいじゃん」
 おれは単純に感心する。卒業式で個別に役割が与えられるというのはものすごいことで、おれには全く無縁のことだった。
「それで、今日先生に言われて原稿をもらってきたんだけど、あたし本番は読めないからどうしようって思って」
 美琴はメガネをかけていても細かい文字は読めないけれど、さすがに卒業式のステージ上でルーペを使うわけにはいかないだろう。
「頑張って全部覚えなくちゃいけないんだ。だから、手伝って欲しいんだけど……」
 今日うさぎ小屋へ来るのが遅かったのは放課後このことで先生に呼び出されていたのかと思うのと同時に、話す台詞全てを暗記するなんてとんでもないことを考えるなぁと思う。
 確かにそうしないとだめだろうけど、今日から卒業式まで約半月。それまでの間にできるだろうか。
 それでも美琴は今までこういったことも全て何食わぬ顔で乗り越えてきた。その影でどれほどの努力を重ねているかを知っている人は少ない。
「一文字でも間違ったらすかさず突っ込むからな」
 おれの返事を聞いて顔を輝かせる美琴。途端に歩く歩調がいつもより早くなったような気がする。
「うん。頑張るよ。でも、あたしなんかよりも適任の人たくさんいると思うんだけどなぁ」
 軽く首を傾げ美琴が顔をしかめる。確かに美琴以外の人だったら原稿をそのまま読めばいいだけだし、選ばれても緊張はすれども特に苦労はしないだろう。
「答辞って成績優秀者の中から先生達の推薦で決まるんだろ。引っかかるところはあるけど素直に選ばれたってことで喜んでおけばいいんだよ」
 おれは美琴にそれ以上考えさせないように言葉を続けた。
 美琴のことを気に入っていない先生がいるということをおれはよく知っている。もしかしたらその先生たちが最後に大役を押し付けただけなのかもしれない。それでもこういったマイナスな考えはあまり持ちたくはなかった。
「ひとまず、間違えないように頑張らなくちゃ」
 美琴は早速今日から練習だと気合いを入れている様子だった。
「なぁ」
 おれも美琴に話しかける。おれから会話を投げかけられるのが珍しいのか、美琴が歩く足を止める。
「なに?」
 先程おれが美琴に聞いたようにおれの顔を見る美琴。その笑顔は太陽の代わりに顔を出してきた月のように透明感があるのを感じた。
「やっぱりいいや」
 この笑顔の前では言えない。でも近いうちに言わなければならない。
 おれは前を向いて美琴の少し前を歩く。知らずに足取りが少し早くなってしまっていた。
「まぁちゃん、待って!」
 美琴の声を聞いて我に返り、足を止める。そして美琴が早足でおれに追いつくのを待った。


 居間の電話が着信を知らせる電子音を鳴らした。
 夕食後だったため、美琴は部屋で答辞の原稿を読んで覚えているところだった。父さんはまだ仕事から帰ってきていない。母さんはおれと一緒にテレビを見ていたけれど、こたつに入っているためか全く立つ気配がなかった。仕方なく立ち上がり電話に出る。
「はい。遠野です」
 途端に足元が寒くなり、電話を持ちながら場所をずらさないように足踏みをする。
「お、雅弥か。美琴はいるか」
 仲原先生からの電話におれはその寒さもすっかり感覚がなくなっていった。
 内容を聞いたおれの顔はかなり青白くなっているだろうと思う。
 おれは階段を駆け上がって2階にある美琴の部屋に駆け込んだ。
 先生の忠告から、早くも3日が経過してしまっていた。


 白い息を吐き出しながら懸命に自転車を漕ぐ。後部座席には部屋着にコートという格好の美琴が乗っていて、同じくジャケットを羽織っただけのおれの腰に手を回していた。
 おれはいつも2人乗りは得意ではなかったけれど、最高速に急いでいるためにスピードに乗り、ふらふらした運転ではなかった。そのかわりカーブでよろけて何度も転びそうになってひやひやとする。
 そういったことを繰り返して、それでも普段の徒歩の半分くらいの時間で小学校に着き、ひたすら目的地まで走る。時々美琴がつらそうに腰をかがめているのを見ておれも少し足を止めるけれど、今はとにかく早くうさぎ小屋に着きたかった。
 夜の学校は外灯も校門付近にしかついていなく、薄暗い中を走る。歩き慣れている道でなかったらうっかり転んでしまいそうになる。美琴はおそらくおれよりも更に見えないだろうからもっと危険だろう。それでも息もできないくらい肩を上下させて走ってきている。もう辺りの景色を見る余裕も全くないのだと思う。
 体育館の裏手へ回ると飼育小屋の辺りに1つだけ外灯があり、ほわんとしたほのかな光を放っている。そしてうさぎ小屋に座り込んで懐中電灯で中を照らしている人が一人。
「仲原先生!」
 先に着いたおれが美琴も連れてきたことを告げる。運動には慣れているはずのおれもさすがにつらく、息を荒くしてしまう。
「やっときたか。でも間に合ったな」
 遅れてやってきた美琴の肩を先生がとんとんと軽く叩く。美琴は息を吹き返したかのように短く息を吸ったり吐いたりしていたけれど、いてもたってもいられないのか小屋の中に入る。その後に続いたおれは、美琴が抱きかかえたルビーが仲原先生の持っている懐中電灯に照らされるのを見た。
 小さなうさぎは身体を縮ませて横になっている。目は閉じられていたけれど、美琴がその身体に触れるとのろのろと目を開けた。美琴の姿を見ると安心したのかまた目を閉じる。おなかの部分を見てみると、小さくではあるけれど上下に動いているのがわかった。
「ルビー」
 美琴がルビーの身体を優しく撫でる。
 おれと仲原先生はその美琴の隣で膝を突き、その様子をじっと眺めていた。
 時間はもう夜9時を回っている。いつもうさぎ小屋にいる時間は小学生たちが帰った後のためにそんなにうるさくはなかったけれど、こんなに静かなのは初めてだった。ルビー以外の2羽のうさぎも、今の状態がわかっているのか起きているけれども近くでじっと様子を眺めている。
 音が、何も聞こえなくなる。
 美琴も、おれも、先生も、うさぎたちも、とにかくずっと、ルビーを見ていた。
 時間もすっかり止まってしまったような気がする。もうずっと、この状態のままでいるのではないかと思う。


 あまりにも静かで、おれはその瞬間に気づくことができなかった。少し意識を飛ばしてしまったのだろうか。
 いつの間にか美琴の抱いているルビーの腹部が上下に動かなくなっていた。
 瞳は閉じられたまま決して開かない。
 ようやく気がついたおれは、ルビーの頭を軽くくしゃっと撫でた。
 暖かさはまだ残っていたけれど、徐々にそれが辺りの冷たい空気に吸い込まれていく。
 おれは目を閉じた。そして何秒か経ってから開ける。
 ふと横を見てみると、美琴が声も出さずに泣いていた。静かに、ただ涙だけを流して。
 だからおれは気づくのが遅かったのかもしれない。こんな泣き方をする美琴をおれは初めて見ていた。
 美琴が勢いよく立ち上がり、先生にルビーを預ける。突然のことで先生は驚いていたようだったけれど、うさぎを優しく受け止めていた。でも、その冷たい様子に先生もショックを隠しきれていない様子だった。
 おれは自分がここにいる2人と比べて冷静なのにとても驚いていた。
 この時間だけ捨ててしまったのかもしれない。
 大切な存在がなくなってしまった悲しみも、冬の夜の冷たい寒さも、その他の感覚も全て。
 または、おれはしっかりしなくちゃいけないと自分を奮い立たせていたのだろうか。


 突然美琴が踵を返して走り出す。
「美琴!」
 おれはようやく声が出た。かなりかすれて小さかったために美琴には届いていないのかもしれないけれど。
 おれも立ち上がる。美琴が姿を消した体育館の方を一瞬見た後、ルビーを抱いたままずっと座っていた仲原先生を見つめた。
「お前……言えなかったんだな」
 先生がおれを見て言う。その声は少し低く震えていた。決して怒っているわけではないけれど、おれは答えることができずに下を向いた。
「ルビーのこと、少しお願いします」
 一言それだけようやく言って、おれは美琴を追いかけるために校門の方へと走った。


 美琴にとってうさぎたちの存在は仲間以上のものだった。
 特にルビーには一番思い入れがある。
 自分の容姿と似ているために感情移入しているということの他に、ルビーは美琴が小学2年生になってすぐにこの小学校の飼育小屋で生まれたうさぎだった。
 美琴がいじめられたのは小学1年生の時からだと聞いたけれど、初めは比較的規模も小さかった。それが徐々にエスカレートしてきて、美琴自身で受けとめることができなくなったのがちょうどこの時期。美琴はその頃からうさぎ小屋に通い始めるようになっていた。
 当時はまだ仲原先生は小学校にいなかったため違う先生だったけれど、その先生の協力もあってうさぎの出産に美琴と連れられたおれとで立ち会っていた。
 生まれた頃から知っているということで、美琴にとってはほとんど母親のような感覚だったのかもしれない。
 何も知らないまま連れられていったおれでさえあの時のことは今でもはっきりと覚えている。
 新たないのちが生まれるその一瞬はとても力強くて暖かくて、優しかった。
 美琴は生まれたうさぎと自分の持っているうさぎのぬいぐるみとがよく似ていることに気付き、同じ名前をつけて両方とも可愛がっていた。
 一時でも離れたくないというようにどこへ行くにも必ず連れて歩いていたのだった。


 こういう時に美琴が行きそうな場所はたいてい決まっている。おれは一直線にその場所ヘ向かった。
 足りない呼吸を思いっきり取るために上を向いて大きく深呼吸をする。
 先程まで全く気がつかなかったけれど今日は晴れていて、夜のしんとした寒さの中で空気も澄んでいるために空の星もはっきりと見える。
 立ち止まったおれは息を荒くしながらも、汗が引いて身体からの熱がなくなっていったために思わず自分で自分を抱きとめる。こんなことで寒さが和らぐわけはないけれど、おれの心を落ち着かせるためには充分だった。
 おれはしっかりしなくてはいけない。
 しばらくその体勢のままでいた。早鐘のように鳴っていた心臓も元の調子を取り戻しつつある。
 再び、今度は一度だけ大きく息を吸って、また吐く。
 そうしてから、おれは歩いた。
 おれにとっては小さすぎる階段を手すりにつかまって屈みながらゆっくりと登る。辺りの音がほとんどしないためにとんとんという音がかなり響いたけれど、俺の目の前にいる小さな影は全く動く気配はなかった。
「滑れないよ、美琴」
 美琴のお気に入りの場所は、公園だった。
 太陽の光の中で長時間いることができないため、いつも他の子供たちが遊んでいるのを羨ましがっている様子をおれはいつも見ていた。
 あまりにも楽しそうでいてもたってもいられなくなったのか、夜に一人で遊んでいたこともある。危険なためにそれが見つかった時はかなり怒られていたけれど、美琴は落ち込んだ時にはいつも夜に家を抜け出し誰もいない公園に行っていた。
 更に高い場所が好きなのか、いるのは決まって滑り台。滑るためではなく、上にあるわずかな空間に座って公園全体の様子を眺めるのが好きだった。
 それでも今は膝を抱えて頭を乗せ、うつむいて縮こまっているだけ。
「滑れないよ」
 おれはもう一度美琴に話しかける。滑り台の上の空間は人一人しか入ることができないくらい狭く、おれは階段の真ん中辺りで立ち止まり、座った美琴の目線に合わせていた。
 一瞬美琴がおれの言葉に反応したのか軽く身じろぎをする。それでもやっぱり顔を上げるつもりはないようだった。
「美琴」
 また言葉をかける。ただ、なんと言っていいのかはわからない。どんな言葉をかけたとしても美琴の心には響かないと思う。
 おれにできることなど何もないのかもしれない。
 それでも、今ここで美琴を一人にしておくわけにはいかなかった。小学校ではまだ先生がルビーと一緒に待っているだろう。大切な子だからこそきちんと埋葬しなければ。
 目をそらしていてはいけない。
 おれは少し狭いけれど階段を一番上まで登り、美琴のすぐ後ろで屈んで立った。それから軽くではあるけれども一気に美琴の背を押す。
「きゃ」
 小さく呟いて体勢を崩す美琴。身体が前に傾き、同時に下に向かって滑り落ちていく。その体勢を支えるために前を向き、縮こまっていた腕は滑り台の縁を掴んでいた。
 おれはその後で美琴と同じく滑り台を使って下に降りる。
 美琴はおれの方を見て何か言いたそうだったけれど言葉には出さなかった。先程のように下を向いて縮こまったりはせずにただ前を向く。何も動こうとしない。
 しばらくお互いに無言の状態が続いた。夜の冷たい風が辺りをゆっくりと流れていく。


「あたし……知ってたよ」
 沈黙を破ったのは美琴の方だった。辺りが静かでなければ聞き逃していたかもしれないくらいのかすかな声。
「ルビーがもうすぐあたしのそばからいなくなっちゃうんだって。知ってたよ」
 前を向いているため美琴の表情はおれからは見えない。それでも声だけを聞いていると先程よりは落ち着いてきたのかもしれないと思えた。
「だって、うさぎさんの寿命は7年くらいだもんね。信じたくはないけど、そろそろかもしれないなって思ってたんだ。ルビーのお母さんだってそうだったもんね」
 おれが仲原先生から言われていた『言わなければならないこと』というのはこのことだった。かけがえのない存在がある日急になくなったとしたらしばらく立ち直ることはできないだろうから、つらくはあるけれども先に言ってある程度覚悟をしていた方がその時の衝撃は減る。
 おれはどうしても口に出すことはできなかったけれど、美琴はずっとそばでうさぎたちを見てきたのだ。おれたちでは気づかなかったちょっとした変化にもすぐ反応していたのかもしれない。
 美琴はおれが仲原先生から言われるより前からずっと、いつか来る今日に怯え続けていたのかもしれない。
「ルビーは、いつかあたしのそばからいなくなって会えなくなっちゃうから、そうなったとしても元気に送り出してあげようねってずっと思ってたのにな。だめだったね」
 おれは何も言うことができずにただ固まっていることしかできない。
「ルビーがいなくてもしっかりしなくちゃって思ってるんだ。あたしは高校も少しだけど遠いところに行っちゃうし、小学校にもなかなか行けなくなるから。子離れじゃないけど、頼っちゃだめだって」
 おれは美琴の思いを全然汲んでいなかったのかもしれない。
 美琴の様子は見ていて本当に痛々しいけれど、おれが思っている以上に美琴はうさぎたちのことを思っていて、そして自分自身でも成長をしていたのだと思う。
 おれは美琴の頭を軽く撫でた。子供に対してやるようなその動作に美琴は驚いて振り返りおれの方を見る。その瞳は赤みを増していたけれど涙は流してはおらず、少し潤んで揺れていた。
「ルビーはね、あたしにたっくさんのものをくれたんだ。あたしはルビーにそれだけのことをしてあげられたのかとっても不安だけど、ルビーがいてくれたから頑張ってこれたの」
 意識をして笑おうと努力しているらしい美琴の顔はそれが上手くいかずにとてもぎこちなく、見ているおれも胸が痛む。
「うさぎさんって鳴かないでしょ。どんなに苦しくたって黙ってるの。強いなって思うんだ。あたしは喋るの好きだし、弱いからつい助けてって言いそうになっちゃう。でもあたしはうさぎさんみたいに強くなりたい」
 そういえば。おれは美琴の言葉を聞いて思った。
 美琴が泣いている様子を見ること自体、おれは滅多になかった。今日以外で美琴の涙を見たのはいつだっただろうか。思い出せない。
 泣き出しそうな表情を見たことは何度かある。落ち込んだり暗い表情は数多く見てきた。それでも美琴はその後に笑い出したりしていたのだ。
「でも、うさぎさんは鳴かないけど、いつも言ってくれてたんだよ。美琴、頑張れ、頑張れーって。声は聞こえなかったけど、あたしは知ってたの」
「うん」
 おれはただ相づちだけを打った。おれが何も言わなくても美琴は立ち直れると思ったから。ルビーは現実にはもういなくなってしまったけれど、これからも美琴のことを励まし続けていくのだろう。
「あたしがずっと手を離そうとしなかったから、ずっと頼ってばっかりだったから、ルビーの方から一人立ちできるようにって手を離してくれたんだよ」
 おれの方をもう一度見て、それから美琴は空を見た。明るく輝く星たちを眺めながらようやく美琴は落ち着いた笑顔を見せた。
「だからあたし、頑張るからね」
 おれはその穏やかな横顔を見ながら美琴の心の深さに馳せていた。

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