次の日の朝。私はまた起きて着替え終わってから窓を開けた。
昨日の午後から降り続けていた雨は朝になってやんだようだ。屋根からぽたぽたと水滴が落ちてくる不規則な音は聞こえていたけれど。他にはいつもの鳥のさえずりの音くらいしかなかった。
太陽の光は私のところまで直接届いてはこない。曇っているためにすっかり弱くなってしまっているのだろう。それでも辺りを取り巻く空気は昨日のしっとりとしたものと比べるとからっとしてきていた。今日はこれから少しずつ晴れてくるのかもしれない。
今日もこの町では平和で静かな朝だった。
隣町に行っている人達は、昨日は作業が遅くまでかかってしまったらしく帰らなかった人がほとんどだった。父さんはそのことを伝えるために一人帰ってきたけれど、また朝早くから戻ると昨日言っていたのを聞いた。もう既に出かけているのかもしれない。
早く事態が落ち着けばいいと願う反面、どうしてこのようなことが起こったのだろうと考える。私はただ母さんから聞いただけだから何もわからないけれど。
爆弾ではないものの爆発。私には思い浮かぶものがなかった。でもそうして考えていてもどうにもならない。
昨日できなかった洗濯をするため母さんのいる居間へ行こうと思い、窓を閉め、部屋のドアへ向かった時だった。
窓の向こうで何かの物音がした。私ははっとして振り返り、窓の方へ意識を傾ける。
物音がしたのはほんの一瞬で、その後は特に何も聞こえない。それでも私は何かが窓の向こうにいると確信できた。私が窓を開けるのを待っているのだろう。
こういうことをしそうな人といえば、今の私には一人しか思いつかない。よく考えてみると昨日も玄関からではない場所から入ってきていた。
「レヨン?」
頭に思い浮かんだ人の名前を呼ぶ。それでもその声が小さかったのか、相手からの反応がない。
「レヨンなんでしょ?」
今度は少し声を大きくしてみた。それでも物音が動く気配はない。
昨日少しの時間だが会ってみてだいたいの雰囲気は掴めていた。間違いはない。
それにしても、声を出してくれれば安心できるのに。窓の外にいるのはレヨンだとわかっていても誰だとはっきりするまではやはり落ち着かない。
思い切って窓へ近寄り、そして開ける。
「ごめんね」
小さく声がして、窓枠に掴まってよじ登り中に入ってくる。その声を聞いてようやく安心することができた。
レヨンが中に入ってくるのを手を貸して助ける。床に座るのを確認してから、窓を閉めて私も座った。
「あのね」
私は思わず強い口調でレヨンに話しかけてしまった。
「昨日もそうだったけど、誰かわからない人のそばに行くのは、ちょっと怖い。心の中ではレヨンだってわかってても、なかなか動けないの。だから今度からはお願いだからすぐ名前を言って欲しい」
レヨンの手を探して両手でぎゅっと握り締める。レヨンは私に掴まれている方ではないもう片方の手を上げ、手の平全体で包み込むように私の頬に触れた。
「ごめんね」
もう一度謝ってくれたこの声は確かにレヨンだ。
「ラータが、僕を怖がってるんじゃないかって思ったの。そうしたら、僕が今ここにいる意味がないような気がするから」
私がレヨンを怖がる? どうしてそういった発想になるのだろう。さっぱりわからない。
「それから、外ではあまり大きな声を出せなくって」
レヨンは続けてもう一つの理由も教えてくれた。
大きな声を出せないとはどういうことなのだろう。私の表情でだいたいのことを理解したのか、レヨンが更に答えてくれる。
「時間がなくなってきちゃったんだ。僕があまりにも遅いものだから、迎えにきちゃったの。僕ラータにまた来るよって約束したから、それまで見つかるわけにはいかなかったんだ」
……レヨンは、ずっと私のことを考えてくれていた。何気ない約束だったのに、それを守るために必死になってくれていたのだ。それに比べると私は思いっきり自分勝手だ。自己嫌悪に陥り、思わず俯いてしまう。
「僕、今日こうしてラータに会えて、本当によかった」
レヨンは心の底から私と会えたことを喜んでくれている。私の真っ暗な視界の中で、想像でしかないけれどレヨンが満面の笑顔で笑っている。
「朝早くからごめんね。でも、どうしてもラータに会いたかったんだ」
なんだかレヨンは焦っているような気がする。側にいる私にも焦りが移ってきてしまうけれど、レヨンが微笑んでくれているんだからと私も努めて頬を緩めた。
「ここだったら見つかる心配はないと思うよ」
さすがに迎えに来るという人も他人の家に乗り込んでくるということはしないだろう。
「ラータの家も、違う意味で安心できないんだよ」
レヨンはやはりどこか落ち着かない様子だ。それがどうしてかはわからないけれど、そのことについてはもう触れない方がいいような気がした。
改めて落ち着いて床に座り直し、何かを言われるのを待っていた私に、レヨンが言った。
「僕はラータに聞きたいことが一つあるんだ」
時間を必要としたくらいだから、どれくらいの量の質問が飛び出すかと思っていた私はなんだか拍子抜けになってしまった。
「そうなんだ。うん。いいよ」
私は短く答える。レヨンの体が少し近づいたような気がした。おそらく身を乗り出したのだろう。かなり緊張している様子だった。
私は黙ってレヨンからの言葉を待つ。それでも、かなり長い間言葉が紡ぎ出されることはなかった。
時間がないと言っていたのはレヨンの方だ。それでも、そのリスクを負ってまで言うのに時間を必要とする質問は、どんなものなのだろう。
私は次第にこの緊張感に耐えられなくなってきてしまった。
「質問って、何?」
思わず言葉を発してしまう。レヨンは一瞬びくりとしたようだったけれど、ようやく小さな声がこぼれてきた。
「ラータは、どうして僕を怖がらなかったの?」
私は何度か不思議に思っていた。どうしてレヨンは私に対して怖いと思われるのを恐れるのだろうか。
「どうして、そういうことを言うの? 私は別にレヨンを怖いなんて思わないんだけど」
私は本心を伝える。少なくとも私はレヨンに対して怖いなどという感情は持ったことがない。
レヨンは人に怖いと思われるのが嫌なのだろうか。だから、そんなに過剰反応をしてしまうのだろうか。
だけれど、そもそも怖いという理由がない。それなのに。
「……ねぇラータ。ちょっと手を貸してくれる?」
レヨンは少し考えた後、私にそう言った。私はわけがわからなかったけれど、そのまま両手を向けて差し出す。レヨンは私に近づき、その両手を取って私に何かを触れさせた。
生温かい。これは人間の皮膚。手の位置はそんなに変わっていないため、顔の一部分だろうとは思うけれど、どこかと言われるといまいちよくわからない。
私をその位置にまで誘導すると、レヨンの手が離れる。私は始めは先の部分に触れていたけれど、それを下ろしていった。辿りついたところは、レヨンの頬。
「……耳?」
私は一言それだけを漏らす。レヨンは黙ったまま軽く頷いた。
普通、人間の耳は丸くて小さい。私みたいに髪の毛の長い人はそれに簡単に覆われ隠れてしまう。だけれど、レヨンの耳は普通の人の3倍は長く、先が尖っていた。
「レヨンは……。人間じゃ、ない?」
私はぽつぽつと言葉を発するので精一杯だった。確かに私はレヨンの顔を見ることができない。それでも、今まで話していたレヨンは私の中では完全に人間の姿だった。それがこの耳という情報を手にしてまた新たな映像が形作られていく。
「うん。僕は……エルフ」
私は小さな頃に読んだ本や、おとぎ話くらいでしか聞いたことがない。そもそも、実際にこの世界に存在しているのかすら知らなかった。
エルフは人間には決して扱うことのできない力を使う。魔力を身体の中に秘めていて、それを意識した時に身体の外へ出すことができるらしい。けれど、それが本当なのかということも全くわからない。
とにかく今、私の目の前に、実はエルフだったというレヨンが座っているのだ。
「どう? 僕のことが、怖いって思う?」
レヨンはもう一度私に尋ねる。私は正直、これ以上ないというくらい驚いたけれど、それでも怖いとは決して感じなかった。
首を横に振る私を見て、レヨンは少しほっとしたようだったけれど、なんだか納得もしていないようだった。
「そうなの? 僕がエルフだってことを知っても怖くないの?」
レヨンは人間ではないから、だから怖がると思っているのだろうか。そんなことは決してない。それだったら、同じ人間でだって盗賊などの方がよっぽど怖い。
少なくとも私はまだ知り合って間もないけれど、レヨンのことをとても信頼していた。この子は思ったことに嘘をつかずに話してくれると思える。そして素直だ。
「やっぱり、ラータって面白いね」
軽くレヨンが笑ったような気がした。私もつられて微笑む。
「レヨンがエルフだってこと、言われなかったらわからなかったし、そうだってわかってもレヨンであることには変わりないんだから、怖いって思うことはないと思うんだけど」
レヨンは微笑んだ顔からまた真顔に戻したようだった。辺りの空気が微かに固くなる。
「あのね、僕がラータに興味を持ったのは、正直に言うと始めは目が見えないって聞いたからなんだ。エルフとして特徴のある耳さえ見えなかったら、僕がエルフだってわからないだろうなぁと思って。ラータは思ったとおり僕を普通の人間として見てくれた」
私は黙って相づちを打つ。
「嬉しかったよ。村を追い出された僕は人間の世界で生きなくちゃいけなくて、でも、みんな僕の耳を見て怖がるんだ。人間じゃないからって殴られもしたし、色々ひどい目にあった。だから、つい構えちゃったんだ」
レヨンは種族が違うということで多くの苦労をしてきたらしい。見た目でしか物を判断できないような人達は、エルフだというだけで怖がるのだろう。
確かに、人間では扱えないような強い力を持っているけれど、誰だってそれを無鉄砲に使うようなことはしないはずだ。
ちょっとよく見てみれば、そんなことは簡単にわかるはずなのに。
「ラータ。固定観念っていうのはとっても根強いものなんだよ。自分より力が強い相手に対して怖くなって、だからみんなでやっつけようというのはよくあるものなんだよ。耳が長いだけで『エルフはわけわかんない力を使う恐ろしい奴だ』っていう考えがついて回っちゃってね、そうじゃないよって思えることってなかなかないと思う」
レヨンは言葉を続ける。なんだか淡々と話しているように聞こえるけれど、それは努めて感情を出さないようにしているのではないかと感じた。
「正直に言うと、ラータも目が見えていたら、僕のことを怖いって感じたかもしれないなぁって思ったりもしたんだ。でも僕は、ラータだったら『そんなことないよ』って言ってもらえるかもしれないとも思ったの」
レヨンが微笑んだような気がした。
「だから、出会えて良かったって思うよ。それは本当に偶然のことだけど、それがとっても嬉しかったんだ。僕はすっかり諦めていたんだけど、なんだか今は幸せだなぁって思えるんだよ」
そんなことで幸せに思えるなんて。私はなんだかおかしいという気持ちが拭えない。当たり前のことなのに。今レヨンが幸せに思っていることはなかなか幸せだと実感できないくらい、いつもあって当然のものなのだ。
「だから、ラータ。ありがとうね」
いつの間にか両耳から離されていた手をまた取り、レヨンがぎゅっと握り締めてくる。その手が少し震えているような気がして、私はなんだか嫌な予感がした。
「そんなことない。お礼を言われる必要なんてないのに」
私は目の前にいる小さなエルフがとても可愛らしく、そしてとても悲しい子だと思った。この先迎えがきた後この子はどこへ行くのだろう。
「……そろそろかな」
レヨンが身を構えて立ち上がる。私もその物音がした後すぐに立った。
「お別れなんだね。本当はもっと色々なお話をしたかったな」
気分が沈んでしまうけれど、私はそれを感じさせないように明るく微笑んでみた。
そうして、私は一つだけ思うことがあった。
「ねぇ、最後に私の質問にも答えてくれる?」
私も実はレヨンに聞きたいことがあった。でもこれはレヨンに関しての質問ではない。
「うん。いいよ」
急いでいるようだから手短に終わらせなければならない。それでも私は先程のレヨンのように柄にもなく緊張してしまっていた。
「私はどういう風に見える?」
「え?」
レヨンは私の言ったことの意味がわからないようだった。
「私、ずっと前から気になってたんだ。私は目が見えなくなる前の自分しか知らないし、家族や友達に聞いても表面上のこととか、あとお世辞しか言ってもらえなかったから。レヨンの瞳には、私がどのように映っているかを教えて欲しい」
私の説明を聞いて、レヨンはしばらく考えているようだった。じっと私を見つめている視線を感じる。
「上手く言えなくてもどかしいんだけど」
無言の時間が少し流れた後、レヨンは前置きを一つして、答えてくれた。
「ぱっと見た限りでは、可愛いよ。僕から可愛いって言われたらもしかしたら怒るかもしれないけど。黒くて長い髪の毛はとってもさらさらだし、着ている服もとっても地味なんだけど、ラータに似合ってる」
そして一呼吸。私が本当に聞きたいのはたぶんこの次に来る言葉だろうと思った。
「でも、それだけじゃなくて。ラータは吹っ切っているように見せるのが上手いけど、目が見えないことでただひたすら周りに心配をかけないようにって必死になっているように見える。そうとはなかなか見せないけど、僕には無理しているように見えるよ。それはラータの心の中の様子なんだろうけど、それがなんとなく表に出てきているような気がする」
レヨンはたどたどしく話すけれど、それは話す内容をよく考えながら話してくれているのだとわかった。
「だけど、その悲しみの中に見た目ではわからない本心を見ることができるから。目で見たことに騙されないで、自分の感覚を信じることができるから。いいこと半分、嫌なこと半分で、なんとか頑張っているんじゃないかな。そうしているように見えるから、僕はラータが可愛いって思うな」
やっぱり思ったとおりだった。
レヨンこそ見た目だけではない部分もしっかり見てくれている。
昨日、たった数時間だけしか会っていないというのに。
私はいつも、町の人達と会っている時などについ人の心の中を覗き見るようになってしまった。
見た目で人を判断することができないから、声や態度など見えないもので人を判断するようになるのはある意味当然のことなんだろうけれど。
だから、言われたことも鵜呑みにせずに、私自身の直感などで今まで乗り越えてきた。
でも、私の周りの人達は、なんだか目で見るものでしか物を信じない傾向にある。「目が見えないことはかわいそうだ」という発想がすぐ出てきてしまうのだ。
なんだか私はそういった付き合いにすっかり疲れてしまっていた。もっと私の深い部分を見て欲しい。
私はいつも笑うようにしているけれど、それが本心でそうかといえば全然違うのだ。
「ありがとう。かなりすっきりした。とっても嬉しかったよ」
私の言葉を聞いて、レヨンはほっとしたようだった。
「よかった。どう言おうか困っちゃったよ」
レヨンは昨日思いっきり「目が見えないことはかわいそうだ」という発想が出てきていたのに、私はどうしてレヨンなら期待する答えを言ってくれると思ったのだろう。
自分自身でその点はよくはわからないけれど、気づかないうちにレヨンの心の奥底を察していたのかもしれない。
「ごめんね。引き止めちゃって。よければ、帰り道にでもまた寄って行って。歓迎するから」
私が何気なく言ったその一言に、レヨンは少し黙ってしまった。でもすぐに口を開く。
「ごめんね。僕がこれから行くところは、行ったらもう帰って来られないところなんだ。だからまた会おうねっていう約束はできないの」
「そうなんだ」
私は短く答える。とても残念だけれど、これからレヨンは迎えに来てくれた人と一緒に目的地へ向かう旅の続きをするのだ。
「元気でね」
なぜかまた窓から外へ出ようと後ろを振り向いたレヨンに短く激励の言葉を投げかける。レヨンはそれを聞いて何かを考えているようだったけれど、明るく答えてくれた。
「うん。ありがとう。ラータも元気でね」
レヨンが窓を開ける。そしてまた窓枠を乗り越えようと手をかけた時。
「いつまで寝ているの? あ、起きてたか」
突然母さんがドアを開けて部屋に入ってくる。私は思わず母さんの方を向いてしまう。
いつも私が起きる時間を過ぎても居間に行かないから、起こしに来てくれたのかもしれない。
「うん。起きてたよ。ずっと話をしてたんだ」
「誰と?」
「え?」
私が反対方向へ首を向けると、いつの間にか窓が開いていて、カーテンがひらひらと揺れる音と爽やかに流れる風の音が聞こえてきていた。
レヨンは、もう既に部屋から出て行った後だった。
窓の側へ近寄っても気配は全くしない。戸を閉めようとして何かがひっかかる感覚があり、その部分に手を触れてみると、昨日貸した傘が窓枠にかかっているのがわかった。
レヨンと会っていたのは、ほんのわずかな時間だったけれど、私にとって非常に貴い時間だった。
真っ暗だった私の視界に一筋の光が通り、そこから新たな目線が広がったような気がしていたから。
まだ別れてから2日しか経っていないけれど、なんだかぽっかりと隙間が開いてしまったようで、もっと長い月日が経ったような気がしていた。
そして、今日も母さんと一緒に家の仕事をこなしていった。
夕方になり、割り当てられた分の仕事を終えた私は、窓を開けて外の空気を感じていた。
日中の温度は少し汗ばむくらいだったけれど、日が沈みかけて次第に温かかった風に冷たさも混じってくるようになってきた。今日は朝から天気が良かったから、夕方になって太陽の光が弱まってきたということなのだろう。
窓枠に頬杖をついてしばらく呆けていた私の耳に、二人の中年くらいの女性の声が聞こえてきた。ちょうど私の家の前を通り過ぎていくようで、次第に話し声が近づき大きくなってくる。
盗み聞きをするつもりはもちろんなかったけれど、ちょうど話している内容がはっきりと聞こえてきてしまった。その内容を聞いて私はびくりとする。
「広場の子供。本当にかわいそうにねぇ」
「あそこまでしなくてもよかったよねぇ」
どういうことだろう。広場で何かがあったのだろうか。
私はその話の内容がとても気になってしまい、いけないとはわかっていたけれど耳を傾けてしまった。
「本当にあんな子供にそんな力があったのかね」
「でも、隣町では目撃者がいるっていうし」
隣町……。子供? 考えたくはないけれど、どうしても嫌な予感がどんどん湧いてきて止まらず、私は部屋から飛び出し、居間を駆け抜け玄関へ向かう。
「ちょっと、ラータ! どこに行くの!?」
台所で夕食を作っていた母さんが私の様子に驚いて駆け寄ってくる。
「ごめん、すぐに戻るから!」
私はそれだけを叫び、外へ出て先程世間話をしていた女性の声を頼りに追いかける。
「あの、すみません。広場で何かあったんですか?」
足取りはおぼつかないものの、なんとか女性二人に追いつくことができた。
「ラータちゃん! 久し振りだね。一人で外を歩いていて大丈夫かい?」
女性の一人が私を見て朗らかに話しかけてくれる。でも私が聞きたいのはそんな言葉ではなかった。
「ラータちゃんは知らないかもしれないね。前に隣町で大きな爆発事故があったのを知ってるかい? その犯人が捕まって、今朝処刑されたんだよ。しかも、その犯人を聞いてびっくりしたよ。子供だったんだから!」
少し興奮気味なおばさんの話を聞いて、私の嫌な予感はますます大きくなってしまった。言葉を振り絞って聞いてみる。
「あの、その子供って、エルフとかじゃないですよね?」
私の声を聞いて、二人の女性は何やらとても驚いたようだった。
「そうだよ。よくわかったねぇ。やっぱりあんな爆発を起こすっていうのは人間の力では無理だよねぇ。でも、私にはあんな小さな子にそんな力があるとは思えなかったんだけど……」
私はおばさんの話を最後まで聞いていることができなかった。いても立ってもいられなくなり、広場へ向かって駆け出していた。
広場へ近づくにつれて、なんだか焦げ臭い匂いが漂ってくるのがわかった。
先程おばさん達は今朝と言っていたけれど、夜になってもその跡はしばらく消えることはなさそうだった。
今日は丈の長いスカートを履いていたために足がもたついていらいらして仕方がなかったけれど、なんとか転ばないように、そして早く着くようにと走り続ける。
それでも、私は何かにつまづいて足を取られ、転んでしまった。膝から血がとろりとにじみ出てくるのがわかる。何につまづいたのかと足元のものを手に取ると、焦げて墨になった木だった。
そこからは静かに歩く。足に先程のものと同じような木の墨が幾つも当たるのがわかった。
私は信じない。信じないけれど……。
どうしたらいいのだろう。私の中に大きく広がっているこの不安感を、どうしたら解消させることができるのだろうか。
ここにいたのはレヨンではないのだ。違う人であるということもなるべく考えたくはなかったけれど、今はそうして考えを違うところに向けていないとどうにかなりそうだった。
「ラータ。やっぱり来たか」
ふと私の後ろから声が聞こえた。この声は私のよく知っているものだった。
「父さん……」
父さんは私がレヨンと別れた次の日から仕事を再開していたけれど、それを早めに切り上げて毎日隣町の整備作業にも通っていた。
「ここに繋がれていたエルフについて、何か知ってるの?」
最後の望みをかけて尋ねる。こうして尋ねるということは、もう一つの考えももしかしたら立証されてしまうという恐れもあったけれど、とにかく今はこの胸のもやもやをどうにかしたかった。
「一昨日の朝、町を歩いていたところを俺が取り押さえた」
一昨日の朝は、私とレヨンが別れた日。レヨンはその後すぐに捕まってしまったのだ。
膝が抜けて地面に座り込む。先程転んだ時の傷が更に開き、また血が流れてきたような気がしていた。
「暴れるのかと思って身構えていたが、信じられないくらい素直でおとなしくてね。それでも隣町では家族を失った者達の申し出が認められて、死刑執行が確定になった。ただ、どうしてか最期はこの町で迎えたいとエルフが言っていて、その希望だけは叶えられたよ」
そう言って、父さんは私に近づき、目線を合わせるためにしゃがんだ。耳元で何かの紙を開く音が聞こえてくる。
「聞いて驚いたんだが、そのエルフはお前のことを知っていた。手紙を預かってる。読んでもいいか?」
私がこくりと頷いたのを確認すると、父さんは静かに文を読み上げてくれた。
『僕はもうすぐ目的地に着くよ。僕はエルフだけどその力を抑えることができなくて、村から追い出されたの。村を離れたエルフって、なんでかは知らないけど長く生きられないんだって。だから、始めから覚悟はできてたんだ』
レヨンは、私と初めて会った時から、こうなることを予想していた。
私以外の人に見つかる前に急いで帰るようにしていたのは、こういうことだったのだ。
私の部屋にエルフがいるということがわかったら、すぐに捕まってしまうから。
『ふらふら歩いているうちに隣町を見つけてね、助けを求めたんだけど、僕はやっぱり人間には受け入れられなかった。その時、僕は心に余裕を持つことができなかったんだと思うよ。気がついたら町の半分くらいが潰れちゃって、僕は逃げることしかできなかったの。それで僕は思ったんだ。もういいやって』
考えなかったわけではなかった。隣町の事件はレヨンが起こしたということを。
私と会ったのも事件の次の日だったし、エルフだということを聞いて、それはほぼ確信に変わりつつあった。信じたくなかったから考えないようにしていただけ。
『戻ろうって思った時にラータと会ったんだよ。それで、もう少し逃げていようって思った。黙っててごめんね。でも、最後にラータと出会えて僕は本当に嬉しかった。同じエルフでだって優しくしてくれる人はほとんどいなかったから。僕は落ちこぼれだったからね』
レヨンは、エルフの世界でも、人間の世界でも、受け入れられなかったなんて。まだ愛情を多く受けるべき年齢だったのに。そんなところから生じた心の歪みから、魔力のコントロールもきかなくなってしまったのかもしれない。
『だから、僕は大丈夫だから、ラータも僕のことを気にしないでいてね。本当にありがとう。ばいばい』
父さんが読み上げてくれる声を必死に耳で拾うのがやっと。聞き終わった後はもうどうすることもできず、ただ涙を流すのみだった。
父さんは何も言わず、私の手にその手紙を握らせてくれて、そして抱きしめてくれた。
気にしないなんて、そんなことは絶対にしない。
ひどいよ。こんなことを黙っているなんて。
確かに私にはどうすることもできなかっただろうと思うけれど。
でも。
レヨン。
あなたは私の真っ暗な視界の中に、一瞬だけれど光を灯してくれた。
今までよりも。表面上だけでなく、本心から、微笑んでいられるようになれるかと思っていたのに。
隣町の事件が起きる前に会っていたとしたら。もしかしたらこんなことにはならなかったのかもしれない。もちろん今になってこんなことを思っても何も意味を成さないというのはよくわかっている。
今だけ、本当に今だけ、私の目が見えなくてよかったと、思った。この現実を直接見なくて済んで。
今の私には、耐えられない。想像すらしたくない。
心の中に出てこないで。残酷な部分はいらない。私はレヨンの笑顔が見られればいい。
私はしばらくその広場から動くことはできなかった。
本当はとても疲れていて、すぐにでも眠りにつきたかったけれど。
しんと冷えた風が私に触れていた。それでも今日は天気が良く、空では満天の星が広がっているのだろう。
もちろん私にはそんなことに心を留めておく余裕など全くなく、父さんの胸の中で小さく泣くのみだった。
そして、私はこれから、また変わりのない日々を過ごしていく。
途中でとても悲しいことがあっても。嬉しいことがあったとしても。
私の日常は、変わらず、通り過ぎていく。
ただ、それだけ。
ただ、一人のエルフの少年のことだけは。これから決して忘れることなどなく生きていくのだろう。
レヨンは、光を見ることのできない私にとって、心の中で輝き続ける光になったのだ。