舞台はもうかなり前に終わってしまった。
幕が再び上げられることは、もうない。
もっと見ていたかったのに。
目まぐるしく映り変わる照明は、私の心を深く掻き乱した。
そして、私の瞳に映ったその光の鮮やかな色は、今でも忘れることができない。
私の目に、もう光が映ることはない。
目の前は真っ暗で、どんな色も見られなくなってしまったのだ。
私は朝起きて、着替えを済ませてから必ず窓を開ける。
外から入ってくる空気に触れることで、今日の天気やだいたいの温度、時間などを感じ取ることができるから。
それは別に窓を開けなくてもできることではあるけれど、直に触れた方が伝わる情報は多くなる。部屋にいるだけではわからないことも知ることができる。
私にとっては少しでも手がかりが多いに越したことはないのだ。
きれいな空気を吸うのはとても気持ちいい。
風が少し冷たい。早く起きすぎたのかもしれない。
太陽の光が私にも降り注ぐ。私にはその眩しさはわからないけれど、温かさを感じることはできるのだ。
でも今日はその温かさがいつもより弱い。ひんやりとした感覚の方が勝ってしまっている。
今はまだ雨の音は聞こえてきていない。でも近いうちに降ると私は思う。空では白く霞んだ青空の中に、灰色の雲が徐々にその範囲を広げてきているのだろう。
鳥たちのさえずりの声もあちこちから聞こえてくる。
庭の木にでも集まって、何か話し合いでもしているのだろうか。時々羽ばたく音が聞こえて静かになったと思ったら、また気がついたら騒がしくなっていた。
朝の静かな空間の中、ほのかに漂う草や葉の香り。今の時期はちょうど青々とした葉があちこちに広がっているに違いない。それが見られるとしたら、とても和むだろうなぁと思う。
晩春の穏やかな朝。もうすぐ暑い季節がやってくるけれど、私は変わることはない。
幾日も、幾月も、幾年も。
今まで生きてきた中で数多くのことがあったけれど、私はずっと私のままで過ごしてきた。
そして、これからもそうして暮らしていく。
今の私にできることもあるし、できないからといってそんなに簡単に諦めるような人間でもない。
つまずいても必ず何か違う解決方法があるはずだと、時間はかかってもそうして乗り越えてきていたのだった。
窓を開けたまま、少し肌寒い風に身を任せる。流れは穏やかだけれど、私の長い髪の毛を遠慮なく揺らしていく。
手を頭に持って行くと、かなり遊ばれたようで髪がぼさぼさになっているのがわかった。
手櫛で梳かすついでに髪の一番長く伸びた部分に触れる。私の髪はかなり長く、あと少しで腰に届くくらいというところまで伸びてしまった。
ただ伸ばしているだけのため、黒いままでまっすぐ。時々鬱陶しいと思うこともある。でも短く切ってから伸ばすのはとても大変だけれど、切るのは簡単だしいつでもできるからという理由でずっと手を入れないでいた。
そうしていったん落ち着いたと思う髪の毛が、また風に揺られて踊り始めた頃。私は少しずつ違和感を感じ始めていた。
……おかしい。
いつもならまだ起きている人は数人しかいないはずなのに。
先程までしんとしていた町が急に騒々しくなってきた。人々が家から出たり入ったりする音が聞こえてくる。
何やら話もしているみたいだけれど、町外れにあるこの家にはどんなことを話しているかまでは聞き取れない。ただ、なんだか慌てているような感じがしていた。
私の家にも誰かが来ているようだ。壁越しで会話を聞こうとも思ったけれど、小さい声のようでそれも難しくぼそぼそという声しか聞こえてこない。
何が起こっているのかがさっぱりわからず、それでもなんだか心の奥に悪い予感がよぎる。
いてもたってもいられなくなり、家族に今の状態を聞きに行こうと窓を閉め踵を返したところだった。
「ラータ、おはよう」
部屋のドアが開く音と同時に、母さんの声が聞こえてきた。ちなみにラータというのは私の名前。
「おはよう」
私も挨拶を返す。母さんのいる気配を辿りつつ、前へ足を動かしていく。
「なんだか騒がしいけど、何かあったの?」
私はもうとにかく頭の中を駆け回っている疑問点を解決させたくて母さんに思いっきり詰め寄ってしまった。母さんが一歩後ろに引いてくれる。
私の耳とほぼ同じくらいの高さから声が発せられた。
「ちょっとね、隣町で事故があったらしくて人手が必要なんだってさ」
「出かけるの?」
腕を伸ばして母さんに触れる。今日はいつものエプロン姿ではなく、動きやすそうなパンツと上着を着ていた。
「そうだね。とにかく怪我人が多いらしくて。たぶん帰ってくるのは夕方くらいだと思うから、そのつもりでね」
「事故って、何があったの?」
隣町で起きた事故。人手が必要ということは、大きな被害でも受けたのだろうか。今日も私の住んでいる街はつい先程までは相変わらず穏やかな朝を迎えていたし、事件と聞いてもあまりぴんと来ない。
「私も詳しくは聞いてないんだけど、大きな爆発が起きたみたい」
爆発というと、誰かが弾薬を運んでいる途中で誤爆させたとか、そんな感じなのだろうか。
「今日は父さんも私と一緒にこれから行くことになってるから」
「そうなんだ。わかったよ」
私の家族は母さんと父さんがいるだけで、兄弟はいなかった。父さんは仕事のため家にいることは少ないけれど、母さんは家にいて何かと私の世話を焼いてくれていた。
時々誰かの協力が必要になる時もあるけれど、基本的に私は身の回りのことは自分でできる。今までだって何度も家に一人でいたことがあるし、一人で外に出ることもそこそこある。
「でも、そんな事故があったところに行くんだったら気をつけてよね。父さんにも言っといて」
私は母さんの方を向いて言った。私が年を取ったのと同じように母さんも年を取っているのだろうけど、私の見える母さんはいまだに若いまま。声だけが月日と共に変わっていくのみだった。
「そんなの言われなくてもわかってるさ。それじゃ留守番頼んだよ」
母さんの腕が伸びて私の髪の毛に触れる。先程手櫛で直したけれど、どこかまとまっていないところがあったのだろう。
「家のことはやっとくね」
「よろしく」
髪の毛を直してくれた手で母さんは軽く私の頭を撫でていく。もう成人してから幾年も過ぎているというのにいつまで経っても子供扱いは抜けないようだった。とはいえ、私も自立した生活を送っているわけではないから自業自得とも言うけれど。
食事を取って少し落ち着いてから、私はまず掃除をすることにした。
間取りは私が光を失う前から完全に変えていない。そのため家の中にいる限りはだいたいどこに何があるかは見当がつく。
それでも、実際に見て初めて「こんなところにあったっけ」と思うことはよくあるだろう。実際私もよく知っているはずの自分の部屋ですら完全に把握してはいない。至るところに空白点があったりする。
家族も気を遣ってくれているようで「使ったものはいつもの場所に必ず戻す」という暗黙のルールができていた。そのおかげで私は必要なものをすぐに見つけることができる。
そして私が不用意に踏んでしまったりしないように、床や椅子に物を置くこともない。
私には確認することはできないけれど、家の中はかなり殺風景になっているらしい。物が落ちたら大変だという理由。でもなんだか寂しいような気がする。
そこまでしなくてもいいといつも私は言うけれど、結局今も変わりはないらしい。部屋の片隅に置かれるべき花瓶などもないそうだ。割れるのは確かに危険でも、そんなことは滅多にないと思う。
私にとっては見ることができないから花瓶があっても意味がない。でも、みんなの心を和ませていたと思うものを私のせいでなくしてしまったのは申し訳ないと感じていた。
細かい部分まではなかなか手が行き届かず、その辺りはいつも母さんに任せてしまうのだけれど、ほうきで床を掃いたり、雑巾でテーブルなどを拭いたりした。
長年やっているということもあって、ほとんどは普通の人と変わらなくできるようになっている。
それは洗濯などもそうで、頑固な汚れのついているものはあらかじめ分けておいて母さんがやってくれるが、それ以外は私が庭に置かれている井戸の側でたらいに水を溜めて擦り洗いをしていた。
家の井戸はつるべを落として引き上げるものではなく、金属でできている棒を押したり引いたりすると蛇口から水が出るという種類のもの。
洗っては流し、洗っては流しという繰り返しの中で何度も井戸に触れた。いつもなら陽射しの温かさを吸収してほんわかと気持ちいい感じに温まっているのに今日はそれがひどく冷たい。風も強さは弱いけれど肌寒く、外に出ている私の全身を撫でていく。寒くて耐えられないというわけではない。でも上にもう一枚着てくればよかったと少し思った。
朝起きた時に雨が降るかもしれないと思ったが、その勘は当たりそうだ。そのため今日は小さなものだけを選んで洗い、簡単に終わらせて部屋に戻り、干していた。
今日は隣町の事件のためか、庭に出ている時も人々の話し声などはあまり聞こえてこなかった。
それだけ多くの人達が駆り出されたということで、何が起こったのかがやはり気になってしまう。今日母さんと父さんが帰ってきたら詳しく聞かなきゃと改めて思った。
一通り家事を終わらせ、昼食も簡単に作って台所で食べていた時。
……何だろう。
庭の方から何やら物音がしたような気がした。
母さん父さんが帰ってきたのだろうか。でも夕方くらいだと言っていたし、何より帰ってくるなら普通は玄関から入ってくるはず。
気になった私は椅子から立ち上がり、庭の方へ向かった。壁に手をつけながらゆっくりと歩く。
「誰かいるんですか?」
物音がしてきた方を向いて、声をかける。人かもしれないし、動物かもしれない。とにかく何かが動いているという感覚が近づいていくにつれて強くなってきた。
「……!」
その物音は私の声が聞こえたのか一瞬動きが止まった。おそらく私の様子でも見ているのだろうか。相手が止まったために、なぜか私も動きを止めてしまう。
もし人のいない町を狙ってきた盗賊などの部類だったら危険だというのもある。よく知っている人であれば雰囲気でわかるし、そういった人以外はなるべく近づかないようにはしている。
でも、今私の目の前にいるものからは心配はないだろうという印象を受けていた。本当に危険な人からは「逃げろ」という直感が働くはずなのだ。反対に、今は迷子になった子供が母親を探して辺りを彷徨っているというような雰囲気を持っているなぁと思っていた。
「何かありましたか?」
先程よりもなるべく優しい声を出すように努めて、また少しゆっくりと足を進めた。相手は私の方を焦りながらも見ているようだけれど、物音は動かず、逃げたりはしていない。庭のテラス部分に座ったようだ。近づくにつれて、その物音が比較的小さく、相手は子供かもしれないと確信し始めた。
すぐ側にまで行き、腕を伸ばせば相手に触れられるくらい近づく。そして、その大きさに合わせるように腰を屈めしゃがんだ。
「ねぇ……どこを見ているの?」
物音から恐る恐るというような小さな声が発せられた。やっぱり私が思ったとおり人間の子供だったようだ。変声期になる前の少し高めな少年の声。町では聞いたことがない。どこから迷い込んで来たのだろうか。
私はその少年の方をきちんと見ていたつもりだったけれど、思いっきりあさっての方を向いてしまっていたらしい。
「あ、ごめんね。私は目が見えないから、音がした方を見ていたつもりだったんだけど」
私がそう答えると、少年は何やら理解したようだった。ふぅと一息つく音も聞こえた。
「そうなんだ。でもすごいね。僕がここに入ってきてからすぐお姉ちゃんも来たから、びっくりしちゃった。全然見えないの?」
少年がじっと私の顔を見ているような気がする。私の目を見たら、おそらく白っぽく濁っているのがわかるだろう。もちろん私は自分で見たことはないけれど、周りの人達がよくそう言っていたから。
「目の前で手を振ってみて」
私がそう言った後すぐ顔の側に小さな風が生じた。少年が私の言うとおりに何度か片手を振ったのだろう。
「目、全然動かなかったでしょ」
私がそう言うと、相手は納得してくれたようだった。
「見えないと、大変じゃない? なんだかかわいそう」
目の前の少年は、やっぱりみんなと同じようなことを言う。
どこがかわいそうなのだろうか。確かに目が見えないというのは鮮やかな色合いを楽しめないことだから、それは損なことだけれど。
五感のうちの視覚が失われた今は、残りの4つを駆使して物を見ていかなければならない。
だから、私が見ているものは、みんなが見ているものとは大きく違うものなんだろうなぁとは思う。
私はまぶたという幕が開いていた頃に見ていたものしか明確に頭の中で形作ることができず、それ以外はあくまで想像でしか見ることができないから。目の前にいる少年だって、私にはその姿を思い浮かべるのみ。
とはいえ釈然としない。目が見えないからこそできること。そして見ることができるものもあると思う。そう考えると、みんなが見えないものを見ることができるとも考えられるのではないだろうか。
「私も始めはそう思ってたよ。目が見えない中生き続けていくなんて絶対にできないと思った。一歩前に踏み出すことですら不安が付きまとうし」
少年の頭を探り当てて軽く撫でる。男の子ということもあって髪は短いけれど、とても柔らかく、手触りはさらさらとしていて気持ちよかった。
「でもね、なんとかしようと思えばなんとかなるものなんだよね。私は今は普通に生きていくことができるし、私の目は人種によって肌の色が違ったりするくらいの特徴でしかないんだ」
少年は少し上を向きつつ私の話を静かに聞いてくれている。私は撫でる手を止めた。
「だから、身体の不自由な人にただ同情心だけで『かわいそう』と言うのはやめようね」
「うん」
少年が頷いてくれる様子が伝わってくる。こういう反応はつい可愛いなぁと思ってしまう。
そういえば最近はこのくらいの年齢の子供と話をする機会が全くなかった。
「あ、そういえば私まだごはんの途中だった。……残り物でよければ食べていく?」
先程昼食を取り始めたばかりでまだ空腹感が残っていたらしい。お腹は鳴らなかったけれど、空気が身体の中で少し動いたような感覚があった。
「本当? 実はここを覗き込んだのっておいしそうな匂いがしてきたからなんだ!」
先程より急に少年の声が大きくなったため、私は思わず耳を両手で塞いでしまう。
私には見ることはできないけれど、おそらく顔も笑顔になっているのだろうと思った。
いったん台所へ向かおうと立ち上がり後ろを振り返ったけれど、聞き忘れたことがあったためもう一度少年の方へ向き直した。
「そういえば、あなたの名前は何て言うの? ちなみに私はラータ」
少年はテラスから部屋の中へ入ってきていた。
「僕はレヨンだよ。よろしくねラータ!」
元気なレヨンの声を聞いて、私は思わず頬を緩める。
「うん。よろしくね。レヨン」
「レヨンはどこから来たの? ご両親と一緒に旅をしているとか?」
改めて昼食を取りながら、私と向かい合うようにして座ったレヨンに尋ねた。
声を聞く限りではまだ年端も行かない子供のように感じられるため、旅をするとなると必ず保護者の人がついているのだろうと思った。はぐれてしまったのであれば、食事の後一緒に探しに行こうかと考える。
「僕は一人で旅してるんだよ」
「え?」
私は始め、レヨンが言った言葉の意味がよくわからなかった。
どう考えてもありえないと思う。隣町からこの町へ歩いてくるのだって楽な道のりではない。私だったら目的がない限りは絶対この町から離れようとは思わないのだ。
「だって、僕のお父さんもお母さんも、もう死んじゃってるんだもん」
その一言を聞いて一瞬はっとする。聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない。それでも自分から言ってくれたということもあって、ある程度は吹っ切れているのだろうと思ったりもする。もしかしたら考えないようにしているだけなのかもしれないけれど。
それでも、私が目が見えないことに対して気を遣いすぎる必要はないと考えているように、レヨンにも気を遣うと失礼に当たるかもしれない。
「本当に、一人で? 誰か一緒についてきてくれている人とかもいないの?」
もう一度聞き返す。レヨンの様子から冗談などではないことはわかっていたけれど、聞かずにはいられなかった。
「そうだよ。一人だよ。まぁ旅とはいっても3日前から始めたばかりなんだけどね」
3日前。それくらいなら普通の元気な子供ならなんとかなるかもしれない。私も小さな頃はお使いと称して片道2日ほどのところにある祖父祖母の家に一人で行かされたものだ。
「そっか。びっくりしたよ。旅してるっていうから、もっと長い期間だったのかと思った」
レヨンはよほどお腹がすいていたのか、食器いっぱいに盛った食事をあっという間に平らげてしまいそうな勢いだった。
「どこに行くの? 目的地はもうすぐなのかな?」
続けて質問をする。もしこれよりもっと長い期間がかかりそうだったらお弁当を持たせてあげたいと思った。
「うーん……。目的地は思ったより遠くないみたいだからもうすぐ着くと思うよ。でも、なるべくならあんまり着きたくないんだ。だからけっこう遠回りしてきてるんだよね」
カップに煎れた紅茶を一気に飲む喉の音が聞こえ、一息ついてからまた食べ始める。私はポットを持って席を立ち、レヨンのカップに中身を注いだ。量を見て「ストップ」とレヨンが言ってくれる。
「待っている人がいるんじゃないの? 待たせちゃ悪いんじゃない?」
私も一人で町の外に出た時は見慣れない景色を見るのが楽しく、よく寄り道をして祖母から心配されこっぴどくしかられていた。
「待ってる人はいるかも。でもいつかは行かなくちゃいけないし、でも行ったら帰ってこられないから、なるべく行かないようにしてるの」
レヨンの言っていることが私にはよくわからなかった。わざとわかりにくい言葉を使っているのは何か理由があるのかもしれない。なんだかんだと質問に対してはぐらかされているような気もする。もうこれ以上深く追求するのはやめようと思った。
「そうなんだ」
私が軽くそう答えると、目の前で今までしていた食器の音が急に止まった。レヨンが食事を取る手を急に止めたらしい。
部屋がしんとした途端に雨の音が聞こえてきた。雨脚は穏やかで、よく聞いていないと聞き取れない程度。
いつの間に降ってきていたのだろうか。今までレヨンと話をしているのに夢中で気がつかなかった。
「もう聞かないの?」
今度はレヨンに質問される。私がもっとレヨンのことについて聞くと思っていたのだろうか。なんだか私の方が驚いてしまう。
「だって、言いたくないことの方が多いんでしょ? 私がした質問でも、答えたいことだけ答えている感じがするし」
食器の音は止まったままだ。雨の音も規則正しく聞こえてくる。風はそんなに強くは吹いていないらしい。
レヨンはおそらく私の方をじっと見ているのだろう。私はレヨンと目線を合わせることはできないけれど、微笑んでみた。
「珍しいね」
一言そう言って、再び食事を取り始める。
何が珍しいのかはよくわからない。レヨンに対して深く追求しないことがそんなにおかしいことなのだろうか。たとえ質問をしたとしても答えたくなければそれまでだろうし、相手が言いたければ質問なんてしなくても言ってくれるだろう。
「そうかな」
私も短く答える。そうしているうちにレヨンの食事が終わったようだ。食器を重ねて椅子から立ち、洗い場まで持って行ってくれている。
「ありがと」
「このくらいはしないとね。ごちそうさま。おいしかった」
「どういたしまして」
戻ってきたレヨンは椅子に座ろうとはせず、同じく椅子に座っている私のすぐ隣にやってきた。立っているレヨンと椅子に座っている私とでは目線がだいたい同じくらいらしい。私の耳元のすぐ下から声が聞こえてきたから。
「ラータって面白いね。僕はラータのことを詳しく知りたいなぁって思ったよ」
私にとってはレヨンの方が面白いと思う。この子は私の予想を全て簡単に覆してくれる。
「聞いてくれれば私も答えてもいいかなと思う質問には答えるけど」
微笑みながら言葉を伝える。その後一瞬周りの空気が強く揺らいだ。レヨンが笑ったようだった。
「それじゃ、僕とおんなじじゃん。でもいいよ。わかった」
そう言った後、レヨンは何かを考えているのか、一瞬また部屋の中が静かになった。雨の音が次第に強くなっていく。やっぱり今日は洗濯物を外に干さなくて良かったと思った。
「そしたらね、また明日も来るよ。その時に色々聞いちゃうから、覚悟しててね」
考えがまとまらなかったのか、レヨンは急に帰ると言い出した。
「え? 今雨が降ってるし、もう少しゆっくりしていってもいいよ」
このまま一人で部屋にいても退屈なだけだし、家族が帰ってくる夕方くらいまではいてくれて全く問題はなかった。
「ごめんね。今から泊まるところとかも探さないといけないし。明日にするよ。それじゃね」
「あ! それじゃせめて傘だけでも借りて行って」
帰るのは仕方がないにしても、こんな雨の中傘も差さずにいたら風邪を引いてしまう。私はとっさに玄関へ行き、自分の傘を持って戻ってきた。私の傘には取っ手の部分に波状の印がついているためにすぐ探すことができる。
「これ使って。明日にでも返してくれればいいから」
「ありがとう」
レヨンは早速傘を開いているようだった。
「可愛い模様の傘だね」
「そうなの?」
この傘は母さんが買ってきてくれたものだ。目が見えなくなってからのものだから、どんな色でどんな模様をしているのかは全くわからない。
洋服もそう。自分では選ぶことができないからいつも母さんに頼んでしまう。そのために私の格好は全て母さんのセンスにかかっていた。
「それじゃ、借りてくね」
そう言って、レヨンはなぜか入ってきた庭のテラスから外へ出て行った。
雨はまだ降り続けている。
私は裸足になってテラスに腰をかける。ちょうどつま先部分だけ雨が当たり、そこから徐々に足全体へと水滴が広がっていく。
不思議な、子だった。
私はなんともいえない思いを抱えたまま軽く上を見上げていた。
今まで子供と呼ばれる年齢の人と話してきたことは何度もあるけれど、レヨンのような子供は初めてだった。
興味を持ったことはもちろんだけれど、それと同時に兄弟のいない私には素直なレヨンがどうしようもなく可愛く思えた。
明日はまたレヨンが来てくれる。そう考えるだけでいつもと違う何かが起こりそうな予感がしてわくわくした。
「ただいまー」
急に玄関から母さんの声が聞こえてきて私は思わずびくりとしてしまった。
呆けている間に夕方になってしまったのだろうか。いや、時間はレヨンが出て行ってから間もないはずだ。おそらく予定より早く終わったのだろう。
物音は玄関から居間に移動してくる。そこでテラスに座っている私に気付いたらしい。
「何やってんの」
「おかえり。雨が降ってきたから足だけ当たってるんだよ。気持ちいいよ」
「そうかい」
母さんの答えてくれた声が内にこもっているような気がした。居間から自分の部屋に移動して着替えをしているようだ。
「ねぇ、父さんは? 今いるのって母さんだけだよね」
私は先程から聞こえる物音が一人分のものしか聞こえてこなかったため、尋ねてみた。
「あぁ、父さんはまだ隣町にいるよ。なんだか力仕事が必要だって」
「ふぅん」
それでは父さんの方が夕方に帰ってくるということなのだろうか。
「そういえば、玄関にあんたの傘がなかったけど、どうかしたのかい」
続いて朝から気になっていた隣町の状況について聞こうと思っていたけれど、母さんが口を開く方が早かった。出かける時に傘を持って行ったようだから、それを戻す時に気がついたのだろう。
「雨が降っていて困っている人がいたから、貸してあげたの」
私は前を向いたまま答える。
「そっか。あの傘気に入ってたんだけどな。取っ手もわかりやすくて便利だったし。また買って来ないとね」
私が使う傘だけれど、母さんも気に入っていたのか。初めて聞いたような気がする。そういえば、たとえ私がどんなに可愛いと思うものだって母さんが気に入らなければ確かに買ってきてはくれないなと思った。
「大丈夫だよ。明日返しに来てくれるって言ってたから」
「そう」
母さんは着替え終わったのか居間に戻ってきた。私のすぐ側に来て床に腰掛ける。テラスだと今私がそうしているように足に雨が当たってしまうから。
「それで、隣町はどうだった? 何があったの?」
母さんは私のその質問を聞いて、私の手をぎゅっと握った。
「一言で言えば、凄まじかった。上手く説明できないし、実はあまり思い出したくもないんだけど」
母さんは自分自身で心を落ち着かそうとしているようだった。その様子でとても悲惨な状況だったんだろうということはわかる。
「具体的にでなくていいよ。ただ何があったのか知りたいだけだから」
私は母さんの背中を撫でて言う。私は自分で見ることができないからどうしても聞いてしまうけれど、話しにくい内容を聞くのは心苦しかった。それでも、やはり知りたいと思った。
「町がね、壊れてたんだよ。道も、木も、家も、もちろん人も。一箇所だけだけど、けっこう大きな範囲でね。あれはただの爆弾の爆発なんかじゃない。もっと大きなものだよ」
朝はただの爆発事故とだけ聞いていたけれど、実際はそんなものよりももっと規模が大きすぎたのだろう。母さんが事態についていけなくなってしまうくらい、大きなものなのだ。
「色々な町に支援要請が出ていた理由がよくわかったよ。怪我人の介抱を始め、壊れた建物などを整理したりしなくちゃいけないからね。とりあえず怪我人の方はなんとか落ち着いたから帰ってきたんだけど、町を元に戻す方が大変」
それだけ大きな爆発なのだから、生存者がいるというのはまだ救いがあるのだろうか。それでもその介抱が比較的早く落ち着いたということは、考えたくはないけれど、治療すらできない状態の人達の方が多かったということなのだろうか。
「もういいよ。だいたいだけどわかったから。晩ごはんは私が作るし、母さんはゆっくり休んでてよ」
私は母さんが握り締めている手の上にもう片方の手を重ねて、そう言うのが精一杯だった。