自ら望んでここへ来た者よ
お前に罰と機会を与えよう
新たな視界と仄かな身体と
限りのある自由を与えよう
私の意図を悟った者だけに
新たな扉への鍵を与えよう
少女はふらふらと辺りを彷徨っていた。
その茶色の瞳は薄く膜が張っているかのようにぼんやりとしている。
白と赤の縞模様が入った黒の膝丈ワンピースに白の上着を羽織っている少女は肩付近で切り揃えられた赤茶色の髪をしていた。年は16、7辺りだろうか。
色を失って殺風景だった景色が朝の光と春の息吹に誘われて徐々に鮮やかさを取り戻していた。
太陽の光が辺りを優しく照らし、穏やかなそよ風が流れる。しかし少女はそれを感じようとはしない。少々眩しさに目を細めるだけで、その風の暖かさが肌に触れても気持ち良いとは思っていないようだった。
少女だけがただ1人周りから切り離されているような、そんな感覚を持っていた。輪に加わりたいと思ってもそれが出来ない。
重力に逆らって飛びたいと思えば空も飛べるし、辺りの物に触れたいと思えば触れることが出来る。そういった感覚は残っていたけれど、少女の声に耳を傾けてくれる人はいない。触れてもその感覚は相手には伝わらない。
少女は迷い込んでしまったのだ。よく知っている世界を鏡に映したようなこの場所に。
空気も色も、全く変わりがない。それでもここに来た少女は今までと同じ生き方をする事を許されていなかった。
「どうして……まっすぐ逝かせてくれなかったの……?」
少女の目から涙が零れる。
自ら望んで以前の世界を手放したけれど、そこでも同じ光景が広がっているとは思わなかった。
人間は、命がなくなったら天国か地獄へ行くものと思っていた。
自ら手を離した人間は恐らく地獄へ行く事になるだろうと思い、その覚悟も決めたはずだった。
少女は自分の予想と違う展開に戸惑う事しか出来ない。
今までの世界に耐えられなかったからこそここまでやって来た。忘れたいと思って来た。
しかし、ここにいると少女はついある場所に目を遣ってしまう。それは決して見たいものではないのに。
そして、自分自身の無力さ、情けなさをまた自覚してしまう。
「私は……どこまで行っても独りでいるしかないの?」
少女はまだ冷たい風が吹く中この世界へやって来た。その時からずっと、目線を追ってしまう場所から逃げるように漂い続けていたのだった。
少女の瞳には、いつも一人の男性が映っていた。
背が高く、体が細い男性。
薄笑いを浮かべ、見る物全てを嘲るような瞳。
しかしそれは決して必死に見上げている少女へ向けられることはなく。
背伸びをしてはいるものの、男性の腰より少し高い程度の少女と男性との目線は合うことはなかった。
心の奥に大きな穴が開いているのを自覚しつつも、少女は男性を見続け、後を追う。
目の前の男性しか頼る事の出来る人間がいなかったから。
身体のあちこちにある切り傷の痕が、着ている服の隙間から覗いていた。
傷はほとんどがかさぶたになっていたが、痛みがないといえば嘘になる。
少女にとってはこの傷がついた事による心の傷の方がもっと痛みが強かったのだった。
背を向け家のドアを開ける男性に対して、少女は諦めと、ほんの少しの希望を持っていつもこう言うのだ。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
それに答える声は、もちろんない。
そして男性が部屋から出て行った後、少女は床に座り込んだまま呆けた目で天井を見上げるのだった。
ふと少女の視界の端に大きな桜の木があるのが見えた。
丘の上に立っているその木は所々で花が咲いていた。だがまだ花の数が少ないため寂しい印象を受ける。
少女は自分でも理解できなかったが、その木に惹かれるものがあり桜の木の下へ向かう。そして幹に手を触れた。
この桜の木はこれから数多くの花を咲かせるのだろう。命の息吹が所狭しと詰まっているのかも知れない。
少女はふと顔を曇らす。そしてもう一度桜の木を見上げてみる。
「……?」
先程見ていた時には気付かなかったが、そこには先客がいた。
20歳位の青年は黒の髪、黒の瞳。艶やかな黒が目に眩しい。身長は恐らく180センチを越えているだろうに白のシャツに黒のパンツ姿のその身体は非常に細く、それが少女にはとても印象的に写った。少女は150センチを少し越えた位で小さいのだ。
「こんにちは」
少女は軽く声を掛けたけれど、住む世界の違う人間とは会話をする事など出来ない。恐らく何も反応がないままに終わるだろうと思っていた。
だが、枝に座っていた青年は少女の声に気付いた。耳に軽く手を当て辺りを見ている。そして下を向いた時に立っている少女と目が合った。
「え?」
視線が交錯し、少女は始め何が起こったのかを暫く考える事が出来なかった。
同じような人を今まで見た事がなかった。いないものと思っていた。青年も同じように感じているようで、目が軽く見開かれていた。
「こんにちは」
少女がもう一度言葉を発する。それは相手に届き、青年は軽く頭を垂れた。
「ここに、いてもいい?」
少女は恐る恐る聞いてみる。
「……好きなようにすればいい」
青年はぶっきら棒な物言いだったけれど、不思議と不快感は感じなかった。
「有難う」
「お帰りなさい」
少女は部屋に入ってきた男性に笑顔で呼びかける。その声はやはり期待と不安が奥底で入り混じっていた。
男性は少女の声に耳を傾けようとはしない。少女の方を見ようともしない。
顔をしかめたまま、無言で自分の部屋へと消えていく。
少女はその後をついていこうとするが、男性は部屋へ入るとすぐ鍵をかけてしまうため中に入ることは出来ない。
いつも少女はドアの外で独り立ちすくむことになる。
薄い板1枚に隔てられた壁はその何十倍も厚く、少しの事では壊れそうもない。
少女自身も、それを壊す力も勇気もない。
だから、自分の今置かれている事態に嘆く事しか出来ないのだ。
ドアに手の平をつけ、ため息を1つつく。
しかし、少女は滅多なことでは涙を流さなかった。
まだ、この状態からいつか抜け出せると信じる事が出来ていた。
上に伸ばし続ける手をいつか取ってくれると信じ込む事で自分自身を守っていた。
そうする事で、現実と戦っていたのだった。
少女は青年の右側に座った。互いを見たらその表情を簡単に伺い知る事の出来る距離。
青年は枝に座った少女を眺めていたけれど、すぐに目線を丘から見える街並みに移した。
ただ無言で、穏やかな時間が流れて行く。
少女は先程の暗い感情がゆっくりとではあるけれど次第に落ち着いて来るのを感じていた。
「綺麗だなぁ」
少女が桜の花に触れ何気なく呟く。それは独り言で、特に青年に向けて話し掛けたわけではなかった。
「満開の桜、見たいな」
青年は少女の顔をちらりと見た。
「もうすぐそうなる」
自分の言葉に答えが返って来るとは思わなかった少女は、青年の顔をまじまじと見つめてしまった。
「あなたの名前はなんて言うの?」
少女を見る青年の表情が少し固くなる。
「人に名前を聞く時は、まず自分から名乗るんだな」
決して冷たくはないけれど、その言葉には不可視の力が働いているように思えた。そしてその答えの意味に納得した少女は「そうだよね。ごめんね」と軽く謝る。
「私は、フウカ。風の花で風花だよ」
その名前を聞いた青年は風花と名乗った少女の顔を覗き込む。見つめられた風花は深い黒色の瞳に吸い込まれてしまいそうな感覚を覚えた。
「ふーか……」
青年は少女の名前を反芻する。
「そうだよ」
青年は何を考えているのだろうかと風花は枝から身を乗り出して相手の顔を見ていた。
「……似合わないな」
その言葉に枝からずり落ちそうになってしまう。慌てて木の幹に掴まり、なんとか体勢を元に戻した。
「悪かったねっ! 自分でも可愛すぎる名前だって事は自覚してるよ!」
思わず大きな声になる。そして風花は自分自身の声に驚いた。
これだけの大きさの声を最後に出したのはいったいいつだっただろうかと。それだけ久し振りの事だと感じていた。
瞳がほんの少しだけぼやける。しかしそれはすぐに元に戻った。
「私は名乗ったよ。あなたの名前は?」
風花はもう一度青年に問いかける。青年は気が向かないようだったが風花が名乗ったことで重い口を開けた。
「……ハルキ」
「あ、いい名前だね」
風花も仕返しにからかおうと思っていたが、名前の響きが良かったために素直にそう感じた事を伝える。
「私、ハルキって言う名前、大好き」
一方の青年はそれを聞いても無反応だった。
「名前を褒められても、嬉しくもなんともない」
「そうかなぁ。ねぇ、漢字はどうやって書くの?」
嬉しそうに瞳を輝かせる風花。
「……天気の晴れるっていう字に希望の希」
「そうなんだぁ。いいな。いいなぁ」
晴希は相変わらず言葉少なめに答える。一方の風花は少しでも晴希が質問に答えてくれた事が嬉しかった。
「ごめんね。私、もしかしなくても、邪魔?」
晴希の表情を伺うようにして眺める。
「それはない」
即答する晴希。風花を追い出そうとする気持ちは全く持っていない様子である。
「良かった」
風花は柔らかく微笑む。晴希はその表情に驚いたようで目が見開かれていた。
「なぜ……君は笑っていられる?」
風花は指摘されて始めて微笑んでいるという事に気付いた。そしてそれに対して更に可笑しくなる。
まだ笑う事が出来たのだと思った。そのような感情はつい先程まで忘れていた。
「どうしてだろうね」
そう言って首を傾げた。自覚をしていなかったためにどうしてかは分からない。
「ここではみんな私を知らないけど、今はお話をする事が出来たからかなぁ。答えてくれる人がいるからかなぁ」
そして、風花は桜の木の幹に手を当てた。
「それとも、やりたいことが見つかったからかな?」
そう言ってまた微笑む。晴希はそれには納得せず風花が微笑む理由をまだ探しているようだった。
少女は基本的にいつも家にいた。
時々食べ物を買いに近所のスーパーに行ったり、天気のいい日に庭に出たりする時以外はずっと家の中にいた。
4つくらいしか部屋のない小さな一軒家。
その居間で低い天井を見上げ、膝を抱えて座り縮こまる。
目線を合わす事なく部屋を出て行った男性をまた迎えるために。
不規則で、いつ戻ってくるかわからない男性をひたすら待ち続ける。
何時に戻って来る等という保障があれば、もっと自由に動き回る事が出来たかも知れない。
しかし少女はどれだけ無視されたとしても、男性を待たずにはいられなかった。
自分が心の空っぽな家に独りで戻って来ているからだろうか。男性にはその思いを感じて欲しくなかったのかも知れない。
食事を作って食卓の上に並べてもそれに手をつけられることはなく、男性はやはり自室へ引っ込んでしまう。
少女はそしていつもその男性の分を次の食事時間に冷たいまま食べるのだ。
少しずつ、少しずつ少女は無に侵食されていく。
多少の事にはもう一々反応する事はなくなったが、その日常に諦めを感じる度合いは次第に大きくなっていった。
少女の表情は、次第になくなっていった。
2人で桜の木の上から街並みを見下ろす。
この丘は中学校の敷地内にあるようで、丘の上の中学校へ吸い込まれるかのように学生が登校していた。
学生達の表情はとても晴れやかだ。それを見て風花は俯いてしまう。それに晴希は気付いていないようだった。
とある一点を見つめて晴希が小さく身動ぎをする。風花はその動作を見逃さず、目線を追った。
「あ、可愛い子」
そこには黒の長い髪をした少女が登校するために歩いて来ていた。身長は風花よりも少し低いくらい。セーラー服を着た可愛らしい少女だった。
「いいなぁ。私もああいう子になりたかったなぁ」
地毛で赤茶色い髪の毛に触れながら風花が呟く。晴希はそれには答えなかった。
中学校へ入って行く生徒の数が疎らになり、やがて誰もいなくなっても、晴希は桜の木から離れようとはしなかった。風花はその意図がよく分からないまま、踏み込めずにじっと座っている。
太陽も朝の朧げな光から強い陽射しに変わり、そしてまた、今度は反対側で華やかな茜色を見せる。
そして、その頃から今度は吐き出されるように下校する生徒達が出て行く。稀にグラウンドを駆け回る影も見えるけれど、それも次第に見えなくなっていった。
長い髪の少女は、辺りが薄暗くなった頃に校内から出て来た。その様子を姿が見えなくなるまで見続ける晴希。
「ねぇ、あの子の事を追いかけたりはしないの?」
そう言う風花の声にはまた答えなかった。
それから数日間、ずっと晴希の目線を風花も追う事になる。
次第に桜の花が増えて来ているこの木で、2人はじっと何かを待っているようだった。
少女には、たった一つの楽しみがあった。
それは、天気のいい日に庭に出て、花を育てる事。
小さな一軒家には、その家の広さに比例したような小ぢんまりとした庭があった。
その庭にしゃがみ込み、シャベルを持って土いじりをする。
庭には薄い桃色の小さな花が咲いていた。
少女がまだ小さかった頃に貰った桜草。
当時は鉢植えの1花だけだったが時間をかけてじっくりと増やし、現在は一辺が片手を伸ばしたくらいにまで広がっていた。
5つの花びらが可愛らしく風に揺れる様子を見ると、少女の顔に自然と笑みが零れる。
これは次第に冷たく凍っていく心を優しく溶かしてくれる作用があった。
少女はほとんどの事に希望を持たなくなっていたが、その分この花を見る事で自分自身を奮い立たせていた。
もちろん同居の男性がその桃色の微笑ましい様子に目を留める事はない。
いつもまっすぐ部屋に戻るのみだ。
少女はそれを見てまた悲しい表情を浮かべるけれど、そっと花びらに触れてそれに耐える。
少女しか気に留めない小さな花畑だが、だからこそ子供を育てる母親のように優しく手をかけていたのだった。
数日後の朝。ちょうど桜の木にいる2人が初めて出会った時のような時間。
中学校へ通学して来る学生を見ていた風花はまた冴えない表情をしていた。
鮮やかな、そして穏やかな笑顔を最近見せるようになったいうのに、その影は微塵もない。
桜の花は、初めて出会った時よりも確実に咲いている数が多くなっていた。
黙ったまま桜の花を触る風花。この動作は最近の癖になっているようである。
「なぁ」
そんな風花の様子を見ていた晴希が呼びかける。
「……え?」
風花は晴希が空を仰いでいるのを見て上を向いた。
晴希から話し掛けられるのは初めてだった。そのためになんだか落ち着かなくなる。
「今日も、天気がいいな」
晴希が言うように、2人が出会ってからは曇った事はあったけれども雨が降った日は一日もなかった。
「……うん。そうだね。辺りがとっても綺麗」
晴希は空を見つめ続けながら両腕を上げて伸びをしていた。風花も同じように両腕を上げる。
「生きていた時は、そんな事なんにも感じなかったんだけどね。今は少し……分かるよ」
風花の暗かった表情が太陽の光に当たって明るくなってきた。それを見ていた晴希は頬の力を少し緩める。
「桜は、咲いてもすぐに散る。だから雨が降るとだめなんだ。貴重な満開咲きを雨のせいで見逃したこともある」
風花は上を向いていた目線を元に戻し、また桜の花に触れた。
「雨が降ったって私は冷たいなんて思わないけど、桜は早く散っちゃうんだよね。それは嫌だね。だって満開の桜見たいもん」
「そうだな」
日本人特有のありふれた会話だけれど、風花にとっては心に染み入るものがあった。身体の中がほかほかと暖かくなって来るような感じがする。
「不思議だよね。この場所は、とても落ち着く」
足をぶらぶらさせて、そして両腕を左右に広く伸ばして風花が言う。桜の花の命の息吹が伝わってくるかのようだった。
心地よい空間にいるような錯覚。それを感じていた。
「あぁ」
晴希もそれに答える。その目線はやはり歩いて来る長い髪の少女に向けられていた。
「こんな私達が持っているものはなんだろう。何を目指せばいいんだろうね」
風花はいつの間にか自分の手元を見ていた。手の平を上に向けてそれを見続けている。そして寂しい笑顔を浮かべた。
「君は……ここから抜け出したいのか」
視線を風花に向けて静かに問いかける晴希。
「始めは、どうしてこんなに無意味な事をするんだろうって思った。早く天国でも地獄にでも連れて行ってって思った。どうしてこの世に縛り付けるような事をするんだろうって」
頷く晴希。無言で風花に話の続きを促す。
「自分の命を捨てた人は、提示された条件をクリアしないと生まれ変わる事も出来ないなんて。今と同じ姿のまま、自分だけ時を止めてずっとこんな中途半端な状態でいなければならないなんて」
風花は両手をぎゅっと握り締める。それは爪で手の皮膚を破ってしまうかも知れないと思えるくらい強く感じた。実際はもう生きてさえいないためそのような事はないが、見ていた晴希は手を伸ばしてそれを止めさせようとする。
「その答えはまだ分からない。でも、なんだかもうすぐ見付かりそうな気がする」
手を開く風花。その手の平にはくっきりと跡が残ってはいたけれど、やはり血の流れがないためにそれが滲み出る事はなかった。
「なぜ、そう思う」
普段陽気にしていた風花の、内なる思いがほんの少しだけ顔を出す。
「それも……分からない。ただそう思うだけ」
風花は笑顔といつもの調子を取り戻し、腰掛けている枝に両手を置いて再び足をぶらぶらとさせた。
「そうか」
晴希は風花を見ていた目線をまっすぐ前に向けた。
「あなたはまだだめなの?」
風花はまだ晴希を見ていた。そんな視線を感じながらも晴希は前を見続ける。
「俺は君のような考え方はまだ持てそうにない」
「そっか」
それから風花は言葉を発するのをやめた。ただただ2人とも無言で桜の木の枝に座っていた。
少女と1人の女性が楽しそうに手を繋ぎながら歩いていた。
少女の方がしきりに何かを話していて、女性がそれを聞いて頷き相づちを打つ。
繋いだ手を前後に大きく動かしながら、少女は上を見る。そこには優しくそれに答えてくれる女性の顔があった。
温かな思いが流れてきていた。少女が憧れずにはいられない女性。
いつかこんな人になりたいと思い続けていた女性。
少女にとって一番近くにいてくれた、そして必要な時は抱きしめてくれた女性。
今はもう決してその笑顔が見られる事はない。
小さかった少女にはそれがどういう意味だったのか理解する事が出来ず、急にいなくなった女性をただ探し続けていた。
その意味がわかった後は暫く悲しみに暮れていたが、やがて独りで立ち上がった。
もう1人遺された人と共に生きるために。
その男性は、少女よりも現実を見る事を拒んでいた。
職場と家との往復の日々が続いている。感動も悲しみもなく無表情のまま。
少女はそれから抜け出してもらいたいと努力を重ねたが、そうする事で更に思い出させてしまったようだった。
始めは合わせてくれていたその目線が、今は完全に交わる事はない。
暫く経って、また中学校が人々を吐き出す時間になった。セーラー服を着た少女や学生服を着た少年がどんどんと坂の上の学校から出て来る。その中にはもちろん晴希が見続けていた長い髪の少女がいた。
晴希が見つめるように少女を見る風花。
風花は初めて会った時から常に、どうして晴希はあの少女に執着しているのだろうと考えていた。
ただ登校と下校の様子を見守っているだけ。とても真剣に、そして優しい瞳で見続けているけれど、それ以上の行動を取ったりはしない。
何のために少女を目で追い掛け続けているのか、風花はどうしても思考の渦から離れる事が出来ないでいた。
眺めているうちに思い立つ事はあった。もしかしたらと考える選択肢は幾つかあった。そこから風花は有り得ない物を徐々に消去していく。そして残った選択肢は2つくらいになった。そのうちの大きな方の可能性を思い浮かべる。
始めは小さな疑問だったけれど、それが急に膨張して来て風花の中で溢れ出すのを感じた。
視線を晴希に移す。その表情は風花がとある人を見る時の物と同じだという事に漸く気が付いたようだった。
それを口にするまでに少々の迷いはあったが、風花はどうしても聞きたくて仕方がなかった。これ以上踏み込んではいけないという思いと心の中で葛藤を繰り返す。そうしてまた幾つかの時が流れたが、結局耐え切れずに言葉が零れ落ちる。
「ねぇ……あの子はあなたの妹さんなんだよね」
「なぜ、君がそれを知っている?」
緩み始めていた晴希の表情が強張ったのを感じた。辺りの空気も心なしか冷たくなったような気がする。
風花は言わなければ良かったと少し後悔したけれど、取り消す事はもう出来ない。
「知ってるんじゃないよ。わかったの。だってあなたがあの子を見つめる時の表情を、私もした事があるから」
風花の顔は、緊張して泣きそうになっていた。
「ごめんね。踏み込むような真似をして。私はあなたの事を知りたかったの。でも心配しないで。私が知っているのは、それだけしかないから。それ以上の事は、幾ら考えても分からないから」
風花は陰のある微笑みを見せた。その表情を見て晴希が僅かにはっとして落ち着く。
「私達には、過去の話は禁句だから。それぞれの話を聞いたって、何の解決にもならない。ただ傷が深くなるだけだから。……分かり合おうとしなければ」
胸に手を当てている風花。晴希をまっすぐに見つめる。
「でもね、少し知りたいって思っちゃったの。ごめんね」
固まってしまった辺りの空気から逃れようと、風花はどうしたらいいか考える。それでも、いい言葉は思いつかなかった。
こういう時はこれ以上話し掛けない方が良いかも知れないという結論に達する。
過去の事について晴希は大きな物を抱えていて、それについて改めて向き合えるようになるためには、もっと数多くの時間が必要なのだろう。
勿論これは風花にも言える事ではあったけれど、心の中で少しずつその氷が解け始めてきたような、計り知れない感覚が生まれて来てもいたのだった。
その感覚に戸惑いを覚えている風花がいる事も確かだった。
「また同じ服を着て来てるよ」
「やだー。きちんと洗濯してないんじゃないの?」
少女は耳を塞ぎたくなる衝動に駆られながらも、それに耐えて教室の窓から外の景色を眺めていた。
食料や洋服を買うお金は勝手にだが男性の財布から持ち出していた。しかし金額は非常に少なく、必要以上には買えない。
そのためにいつも数少ない服をまめに洗濯して着ていた。
いつも洗っているためにすぐぼろぼろになるし、襟などの形も不恰好になる。
その上美容室にも行く余裕がないため、前髪は自分で切っていたし、後ろ髪は伸ばし放題だった。
そんな容姿をしていたために学校では格好のいじめの標的になっていた。
先生もそれを見て見ぬふりをしていたし、少女を助けてくれるような人は誰もいなかった。
話しかけても無視をされる。それでも少女はそんな状態には慣れていたから挨拶だけは欠かさなかった。
「おはよう」
「ばいばい」
しかし、この2つの言葉以外は話す事が全く出来なくなっていた。
少女は家の他に、学校でも心休まる時間を過ごす事は出来なかったのだった。
それから暫く、また無言の、そして同じ日々が流れて行った。
だが、毎日繰り返す中でほんの少し変わった事もある。
傍で柔らかな香りを匂わせる桜の木の花はほとんど満開という所まで来ていて、あと少しで待ちに待った景色が堪能できそうだった。
そして、晴希が見つめ続けていた少女はいつも1人で中学校への道を歩いていたけれど、それが2人に変わっていた。
少女の隣にいる背の高い少年は目線を少々落としながらも度々少女を見る。目が合うと気恥ずかしくて逸らしてしまうけれど、その後またすぐに伏せていた睫毛が上がっているのを感じた。
初々しい、そして微笑ましい2人だった。周りから見て羨ましがられるような、そんな理想が含まれた2人だった。
いつも少女は1人で歩いていた時も優しい笑みは見せていたけれど、その微笑みの中に暗い影が落とされている事を桜の木の上の2人は見逃していなかった。
今もそれはなくなってはいないけれど、徐々にその顔が綻んで来ているのを感じていた。
晴希がそれに気付いた時の表情を、風花ははっきりと覚えている。一瞬の事だったけれど、何か心の底から安心したような感じを受けていた。
表面上ではどんな事を考えているのか窺い知る事は難しいけれど、この時だけは、思いが枝を通してしっかりと伝わって来ていた。そしてそれを受け、風花も嬉しく思っていた。
「1人でいない空間って、こんなに暖かく感じるんだよね。あの2人から春の風の温かさが伝わって来るみたい。ここは陽射しも気持ち良いし、座っているこの枝からも生きている力が伝わって来るよね」
それからふと口を閉じ、ほんの少しだけ何かを考えているようだったが、すぐにまた口を開いた。
「そしてね、あなたの無言の優しさも伝わって来るような気がする。あの子を見続ける優しい目とか。私とこうしていてくれるというのもそうだし」
風花はまた桜に触れる。柔らかく触れるその花びらはほんのり桃色で、風花の上気した顔と同じような色だった。
「あなたも、独りでいる寂しさ、知ってるもんね。私も、私を受け入れてくれる場所をずっと探して来てたんだ」
それから、風花は久し振りに桜の木の枝から離れた。ずっと逃げていた場所へ、それでも忘れられない場所へ、また行こうと思えたからだった。
「私、ちょっと出かけたい所があるから、行ってくるね。……まだ桜、大丈夫だよね?」
「あぁ」
晴希はどこへ行くのかを聞かない。この辺りは自分があまり聞かれたくないと考える事もあり干渉しないようだ。
それでも、以前に風花がそうしたように、どんな事を考えているのかを知りたいと思い始めているのだろう。
まだ素直にそれを認めたくはないようだが、晴希は風花が飛んで行く姿を見えなくなるまでずっと見続けていた。
風花は晴希の視線を背中に感じ、自分と同じく相手も少しずつ心境の変化が起こっているのだろうかと考えていた。
晴希の妹である少女は、兄以外にも自分を守ってくれる人を見つけられるようになった。
これからの事を、少しずつ考え始めているのかもしれない。
風花がこれから行く場所に微かな希望を抱いているように。
切り傷だらけの少女がまた家に戻ってきた。学校のクラスメイト達に苛められた結果だ。
台所に行って傷を洗い流し、それからそっと触って顔をしかめる。
傷薬は塗らなかった。もともと傷薬すら家にはないのだ。
そうしている間に男性も部屋に戻ってきた。少女は足に痛みを感じたがかまわず男性のそばに寄った。
「お帰りなさい」
この日はいつもよりもその言葉に力が入っているような気がした。しかし男性は気にせず自室へ向かう。
少女にとっては身体にも心にも負う物が多すぎていた。限界地点はとうに越えていた。
そのためか、少女の行動にも焦りが見え始めていた。
男性の腕にかじりつき、足を踏ん張って部屋に戻るのを止めようとする。
男性はそれを振りほどくために手を左右に降らした。力を入れ過ぎたため少女を思い切り突き飛ばすような形になってしまう。
少女は部屋の隅の壁まで突き飛ばされ、ぶつかる大きな音がした後、どこで擦ったのかまた顔に傷が増えていた。
傷が重なり、また痛みが増えて行く。
部屋に戻って行った男性を見送った後起き上がった少女の顔には、今までにない決意が現れていた。
少女の瞳がその決意を映し出してきらきらと光っていた。
風花が向かった先は、少し都会の街並み。そのうちのビル群の窓から中を眺めたり、ネオンが犇めく建物の上空を飛んだりしていた。
その空気は淀んでいるように見えたけれど、息苦しくはなかった。
暫くあちらこちらを寄り道しながら進んでいたが、やがて目的地へと辿り着く。街の喧騒と比べると非常に静か過ぎるその場所は、風花の眠っている場所だった。
「何これ……?」
灰色や黒色の石があちらこちらに建ち並んでいる、そのうちの一つ。見覚えのある石段に小さいけれど花が手向けられていた。
「誰が……置いてくれたんだろう」
風花はその花から目を離す事が出来なかった。自分の墓の前に誰かが来るなんて有り得ないと思っていた。
もしかしたら、ただ間違えただけなのかも知れない。自分のために花なんて持って来てくれる人はいないと思うために、そういった思考回路にまで発展してしまう。
それでも、もしこれが風花に対して置かれた物であったなら。これを持って来た人はどういう思いでここまで来たのだろう。
風花はその花を手に取る。畑からそのままちぎって来たような小さくて粗末なものだったけれど、風花の一番好きな花、桜草。ふんわりとした匂いが鼻を擽った。その花を抱え、自分自身の墓石の前で座り込んだ。
目を閉じ、花の匂いに包まれ、それでも何かが足りなかった。
何が必要なのか。それは自分でもよく理解していた。しかし、それは決して手に入らないものだと既に悟っていた。
風花の瞳から一筋の涙が零れる。これは嬉しいのか、悲しいのか、それとも寂しいのか、全く分からなかった。
少女は独りで家にいた。
正確に言えば、いつもいる居間ではなく、少女自身の部屋にいた。
男性はまだ戻ってきていないようだ。しかしそれもよくはわからない。
少女は前から決めていた事を実行しようと思い部屋に閉じこもってから外へ出ていなかったから。
夕暮れの薄暗い時間に電気もつけず、布団の中に潜り込んだ少女。
その手には微かに注ぎ込まれる光の中でもきらりと輝く物があった。
仰向けになり天井を見上げ、布団の中で手の中の物を握り締める。
布団と自身の体温でぬくぬくとしてきた中、心だけが冷え切っていた。
これはいくら外側を暖めても温度は変わらない。中の部分はずっと冷たいままだ。
思い切ろうと思った。新たな世界を生きようと思った。もう希望にはすがれなかった。
未練は数多くある。ありすぎるくらいある。だからこそ、少女は行くのだ。
手の中の物を構えた時。目を閉じながらも流れてくるものがあった。
これまでどんな事があっても乾いて出てくる事などなかったもの。
それは、最後の少女の涙だった。
がさ。と草が辺りを流れる風以外の物に触れる音が聞こえ、風花は立ち上がる。そして後方から音がしたため振り向いた。その目が大きく見開かれる。
「……お父さん」
そこへやって来たのは、風花のたった1人の家族だった。母親は小さい頃に既に病死し、兄弟もいない風花にとっての唯一の肉親。
だが、風花が生きていた頃は全く見向きもされなかった。母親が亡くなってから風花は面倒を見て貰った記憶がない。
早くに母親を亡くした風花には、支えてくれる人が必要だった。しかし、本来その役をしてくれるはずの父親はほとんどいないようなものだった。
風花が助けを求めるような瞳で見つめても相手にはしてくれなかった。風花に関しての子育ては放棄されていたのだ。
次第に諦めを感じるようになった風花は、父親以外で自分を認めてくれる人を探そうとする。しかし親戚も、保育士も、学校の担任も、クラスメイトも、気を留めてくれる人は全くいなかった。反対に危害を加えて来る人々の方が多いくらいだったのだ。
いくら背中を追いかけても傍には辿り着けず、反対に差は大きく広がった。次第にその姿すら見えなくなって行き、完全に姿を見失ってから風花はここへ来ようと決めたのだった。
元々独りなのだから、独りで旅立ってもいいと。反対に、もしかしたら前にいた世界では与えられなかった居場所が、死者の世界では手に入るかも知れないとさえ思えていた。
風花は、自分がいなくなっても誰も悲しむ事などないと思ったのだった。
それが今、風花の父親は、心底という程ではなかったけれど真剣な表情をしていた。そのような顔は見た事がなく、一瞬別人かとも思えた。少し痩せているようにも見える。
無関心だと思っていたのに覚えてくれていた事が不思議で、可笑しくて、風花は乾いた笑いを浮かべた。声を出して大笑いをした。腹部が幾度も上下し、呼吸が出来なくなるくらい長い間、笑い続けていた。
次に行こうとしていた場所は父親のいる家だったのだが、その手間が意外な形で省けてしまった。
もしかしたら必要としてくれていたのかも知れない。でも互いに不器用でそれぞれの気持ちを上手く伝えられなかったためにどこかで狂ってしまった。それを失ってから気付いたのかも知れなかった。
「もう、遅いんだよ。今頃気付いてくれたって。私はずっと独りぼっちだったんだよ?」
両手を腹部に当てて、切れ切れとした息が落ち着くまで少し待った。涙を流しながら少し小さくなった中年男性を見つめる。
「手を思いっきり伸ばして助けを求めても、気に留めても貰えなかったのにね」
風花が自ら前にいた世界を離れてから、鏡のようなこの場所でずっと今まで関わってきた人達が目に入って来ていた。しかし、たまに笑い話の種にされる事はあったけれど、それは欲しかった感情ではなかった。
そういった人達を見続けて来て、父親のいる場所には怖くて近づく事が出来ないでいた。それでも無意識下では求めているようでつい目線を追ってしまうけれど、それを必死に逸らしていた。
それが、父親だけが、こうして風花のいない今を悲しんでくれている。
いつからだったのだろうと思う。今頃こんな事を知るとは。もっと早く気が付いていれば、早く楽になっていたかも知れない。
もう住む世界が違ってしまった今では嬉しいとは思えないけれど、心の中の黒く渦巻いている部分、そして足を竦ませる重い部分が少しずつ溶かされて拡散して行くのを感じていた。
晴希が妹を見つめるように、ずっと父親を見つめ続けていれば良かったのだろうか。目を逸らさなければ良かったのだろうか。
晴希は、桜の時期だからあの木に座っていたのではなく、自分の心が壊れない範囲で少し離れた場所からずっと見守っていたのだろう。
風花と違うのは、少女が兄と同じ世界を生きられなくなり悲しんでいたという事が始めから分かっていた事だった。
晴希は自分のせいで悲しませてしまった悔いもあって、新たに守ってくれる人が見つかるまで、悲しみではなく楽しい思い出に変わるまで見つめていたのだ。
干渉はしてこないけれど、拒否せず、更には貶したりせず、ずっと傍にいてくれた晴希のおかげで今こうして事実を知る事が出来るようになったのだと風花はぼやけた頭の隅で理解をしていた。
少女は母親が昔与えてくれたような暖かさを求め続けていた。
胸の中に微かに残った寂しさからは、母親との楽しい思い出により凌いでいた。
希望を捨て去った今も後ろを振り返りたくなる衝動に駆られたが、戻る事は出来ないし、まっすぐに進んで行こうと思った。
少女が今まで手に入れる事が出来なかった物が持てるようになるかも知れない。
それでも、知らずと下を向いてしまっていた。前を向くのが怖くなってしまったのだろうか。
暫く立ち止まる時も続いた。そしてまたゆっくりと歩いてはまた立ち止まる。
そんな繰り返しだったが、ある時どこからか薄いけれどいい匂いが風に乗って流れてきた。
思わずどこから発せられたものなのか調べるためにきょろきょろと顔を動かしてみる。
少女の目に入ったものは、大きな桜の木だった。
丘の上に佇んでいるそれはそんなに自己主張しているわけでもないが、まだ数少ない花から甘い香りが漂ってくる。
それを見ているうちに、少女はなんだか懐かしくなってきた。
大きな木ではないが、少女が大切に育ててきた桜草を思い出したからだった。
生きていた頃の楽しかった記憶は母親との時間だけではなかった。
桜草を育てている時間だけは、独りだったけれども独りではないような感覚を持つ事が出来ていた。
桜の木の元へ戻った風花は何とも言えない表情をしていた。
嬉しいのか悲しいのか、幸せなのか辛いのか、全く窺い知る事が出来ない。
暫く無言で枝に座っていたが、やがて風花はそこから地面に飛び降りた。けれど桜の木からは離れない。
どこへも行かず、ただ木の幹に触れる。そして生い茂ってきた草の上に腰掛けた。それから上を見上げ、晴希の方を見る。
「ねぇ、あなたも降りてみない?」
晴希も風花の方を見ていたが、動く気配はない。
「ねぇ」
もう一度風花が言う。必死に両腕を左右に伸ばし、晴希をまっすぐに見つめる。涙は流れてはいないが今にも零れそうという勢いで揺れており、それが顔を出して来た月の光に当たって煌めいていた。
「……」
晴希はその意図が分からないながらも風花の言う通りに木の下に降りる。そして幹に寄り掛かっている風花の隣に腰を下ろした。
「……!」
すっと風花の身体が動く。腕を伸ばして晴希を引き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。
晴希が身動ぎしたが構わず腕に力を入れる。晴希は突然の事で何も出来ないようで、ただその体勢のままでいた。
風花は晴希の胸に頬を擦りつけ、抱いたまま目を閉じていた。
「風花」
しばらく経ってようやく現在の状況が掴めて来たのか晴希が小声で呼び掛ける。しかし風花はその声に対して首を軽く振るだけだった。
「私は怖かったんだ。ずっと後ろを向けなくて、だから必死に前を向いてたの。遠くに人がいて、その背中を一生懸命追いかけてたんだけど全然追いつけなくて」
風花が今までずっと抱えていた思い。それが堰を切って流れ出す。勿論晴希の答えは必要としていない。ただ直接人の暖かさに触れていたかっただけだった。
「だけど、私は止まってても良かったの。みんなぐるぐる回ってるから、立ち止まって待ってれば、そのうちまた同じ場所に来るのに。それがわかる前に、輪を抜けてここに来ちゃった。ずっと走り続けて来たけど、それが間違ってるって、気付かなかったんだ」
途切れ途切れに言葉を紡ぐ風花。晴希はどうする事も出来ずにただ風花の話を聞いていた。
「追い掛けている間に、私はやっと同じ速さで走る事が出来るようになったの。でもそれ以上早くは走れないから、それからずっと離れたままで回っていたの。相手は全然見えない所にいて、そんな事が続いて行って、段々怖くなって、涙が出て来たけど、誰も助けてくれなくて、堪えられなくなったの」
思いの断片を吐き出す事で風花は自分を取り戻そうとしているのだろうか。ここまで来るのにどれだけ心を壊して来たのだろうか。
だが、自分から話そうとし始めたのは、少しずつ変化を遂げているという事。過去と向かい合っているという事。
「ごめんね。少しだけこうしたかったの」
風花は落ち着いたのか一言それだけを言い、また晴希の胸に頬をつけた。話していた時に緩んでいた腕にまた力を入れる。
晴希の腕は下に置かれていたけれど、その腕が少しだけ上がった。それが徐々に高さを上げて行き、風花の背中の中央にまでになる。そこから手前に持って行く時に少し躊躇い、しばらくじっとする。一瞬それが動き出そうとしたが、それは風花の背中につく前に押し止められた。
「……ねぇ」
腕の力を緩めて風花は晴希を見上げる。晴希は気恥ずかしくなったのか少し身体を離し、風花を見る。
「あのね、懐かしい匂いがするの」
風花は先程まで大粒の涙を零していたけれど、それをなんとか流さないように押しとどめようとしていた。手で軽く拭ってからもう一度晴希を見上げる。
「私ね、お母さんが生きてた頃は何回も付き添って来てたから覚えてるんだ。とっても悲しい所だから好きじゃないけど、でも全部が嫌いっていうわけじゃないの」
晴希は静かに風花の話を聞いていた。
「……あなたからね、病院の匂いがするよ」
晴希の瞳にもやが掛かる。熱を持ち始めた身体からそれが抜けて行くのを感じた。無言で風花の腕を振り払い立ち上がろうとする。その行動と暗い表情に風花ははっとし、出来る限りの力で再び晴希を引き寄せた。
「……待って! ごめんね。ごめんなさい」
晴希は必死にしがみ付く風花を無理に引き剥がす事はせず、それでも固い表情のまま見下ろす。
「もしかしたらって思ってたんだけど、ハルキ君なんでしょ? 私、ハルキ君から桜草の鉢植えをもらったふーかだよ」
少女はいつも病院の待合室で絵本を読んでいた。通院している母親を待っているためだ。
回数が増えたために院内にある絵本は全て読んでしまっていたが、お気に入りの本があったためそれを何度も読んでいた。
「ねえ」
突然声をかけられて、少女は絵本を読むのを中断する。そこには入院をしているのか病衣を着ている少年がいた。
「病院に診察に来たの?」
少年は利発そうな顔を綻ばせた。
「お母さんを待ってるの」
少女は答える。少年は手に持っていたビニール袋を少女の前に向けた。
「これ、良ければあげるよ。桜草って言うんだって。お見舞いに貰ったんだ」
中を覗いて見ると、そこには小さな鉢植えの可愛らしい花があった。桃色の花が咲いている。
「お花はキレイだけど病室には飾れないんだって。感染がなんとかって言ってた」
「もったいないね。私が貰ってもいいの?」
少女は一目見て桜草が気に入った。とても可愛い花なのに、飾れないのは残念だ。
「いいよ。だって置いておけないんだもん」
「ありがとう」
少女は袋を受け取り微笑む。少年はその様子を見て花をあげたのを少女にして良かったと思ったようだ。少年も微笑む。
「僕は晴希っていうんだ」
「ハルキ君? 私は風花っていうの」
少年は少女の顔を微笑みながら眺めた。
「ふーか?」
「うん」
遠くから少年を呼ぶ声が聞こえた。声の方に目を遣ると女性の看護師がいて「そろそろ病室に戻りなさい」と言いたげな目線を送っている。
「それじゃね。貰ってくれてありがとう」
そう言って少年は踵を返して病室へ向かうべく歩いていった。
少女の手には小さくとも生命力のある鉢植えが残った。少女はそれを眺めて微笑みを暫く止める事が出来なかった。
心の奥底の微かな記憶を思い出して、晴希は風花をはっとしたような顔で眺める。
風花はじっと晴希の顔を見続けていた。その瞳には涙が溢れて止まらずぽたぽたと草花に落ちる。それは自分が悲しいからだけではなかった。
晴希の高い身長にしては細すぎる身体、そして染み付いている薬品の匂い。
この世界に来たのは心の底から望んだのではなく、どうする事も出来なくなったからではないかと風花は思った。
もっと生きていたいと思っていたに違いない。実際妹が立ち直るまでにかなりの時間が掛かった事でわかるように、晴希は多くの人に囲まれて来たのだと思う。
それが、自分で自分の命が終わる日を悟る事が出来たとしたらどうするだろうか。
一生懸命生きようと手段を探るかも知れない。限りある日々を充実させて過ごそうとするかも知れない。
でも、もう助からない命であるなら、もうすぐ人生が終わるというのであるなら、それが早くも遅くも同じ事と思うかも知れない。
周りに大切な人達がいるのであれば、様々な選択肢はあるけれども、負担を減らしたいと考える事もあるだろう。治療費だって馬鹿に出来ない金額になるし、介護する側も体力を消耗する。その負担に耐えられなくなるという事もあるだろう。
風花は涙を流し続ける。自分の欲しかった居場所、それを晴希は持っていたけれども、それを手放さなければならなくなったら。
居場所はなかったけれど、風花は自分が決断しなければもっと長い時を表の世界で過ごす事が出来ていただろう。
それがとてもとても悲しくて、風花は涙が止まらなくなっていた。
「なぜ……君は、こうも簡単に人の心に入って来るんだ」
抑揚のない声が風花の頭の上で響く。涙の所為で晴希の顔はぼやけて見えないけれど、風花の腕の中に大人しく入っていた。
「なぜ……君は、俺のために泣いてくれているんだ」
風花はしゃっくりを一つした。涙を流し続けながら、ほんの少し口の端を上げるように努力する。
「私の持っていない物を、あなたはたぶん持っていて、あなたの持っていない物を、私は持っていると思うの。それがほんのちょっとでも分けられていたなら、私達はここにはいなかったよね」
風花は晴希の背に当てていた腕のうち、左側だけを顔の傍に持って行き、涙を拭う。
「だから、もしかしたら出来ないかも知れないけど、辛い事も分け合いたいなって思ったの。空っぽにしないで、少しずつでも力が入ってくれるようになって欲しいし、私も力が欲しいよ」
涙は拭ってもまだ流れていたが、晴希の幼稚園で親が迎えに来てくれる時を待っている園児のような表情を見つめる。
「私ね、あなたがくれた桜草にたくさん励ましてもらったの。……まぁ、結局はここに来ちゃったんだけどね」
風花はどうして待合室内の多くの人の中から自分を選んでくれたのかと少し考えたが、それについては答えを知らなくてもいいと思った。
「私には、あなたの事を助ける事は出来る?」
霞んでいた晴希の瞳は再び光を取り戻しつつあった。それが嬉しくて、まだ涙は止まらないけれど笑顔を見せる風花。
「……あぁ」
「本当?」
少し時間は空いたけれど、晴希は頷いた。それを聞いた風花は嬉しそうにもう一度晴希を抱き締める。
晴希は今度は風花の背中に手を回し、力は弱かったが抱き締め返した。
背中にそれを感じた風花は、顔が胸に当てられていたため晴希からは見えなかったが、満面の笑みを浮かべ、嬉し涙を流していた。
夜の月の光が、また一層強くなった2人を優しく照らした。
少し冷たいけれど穏やかな風が辺りの草花を控えめに揺らしていた。
少女の心の中に、小さくも可愛らしい1つの花が咲いていた。
それは長い月日をかけて花畑に増やしてきた数の分だけ心の中でも増えていった。
悲しくも現実ではいくら増やしてもその花を枯らすような事しか起こらなかったけれど。
しまいには増えるよりも枯れる方が多くなっていって、最後には全てなくなってしまった。
現実にはまだ綺麗な花を見せてくれていたけれど、心の中の花はもうなくなっていた。
それから少女は新たな畑を求めて歩いてきた。
綺麗に咲いた花が、枯れる事のないような場所。
そして今ようやく根付き、また心の中でも花が咲きそうになってきた。
身体の奥から温かさが増してくるようだった。
そして、心の中の花が強く咲き誇るようになったら……。
少女は目の前にいる少年に微笑みかけた。
少女も少年も成長し、そしてまた再会した。
独りではないという事は、なかなか気付かないけれどなんて幸せな事だろうか。
少女はその幸せをようやく取り戻す事が出来たかも知れない。
夜が明け、いつの間にか眠ってしまった2人は目を覚まし、顔を見合わせて少しだけ笑った。
「ほら、見てみろよ。桜の花……満開だ」
「……わぁ!」
先に枝に登った晴希が風花に向かって登って来るように言う。続けて登った風花は晴希に手を貸してもらい、再び枝に腰掛けた。
風花は華やかな満開桜に言葉をなくし、ただただ見つめ続けていた。花に手を触れ、更にもっと良く見ようと顔を近づけたり、背中を心なしか後ろ側に倒し、花が数多く枝についている様子を見る。
「綺麗だろ」
晴希の言葉に、桜の花から目を離さずにこくこくと首だけを動かす風花。そんな様子はとても微笑ましい。
それから暫く2人でじっと桜の花を堪能していた。心地よい香りが身体全体を包み込んでいるような気がしていた。
風花はそんな穏やかな空気の中、もう1つ晴希に聞きたい事があった。自分で勝手に解釈をしてしまったけれど、晴希本人から聞きたかった事。
「……ねぇ教えて。あなたが……。どうしてここへ来たのか」
風花の目線はまっすぐ晴希に向いていた。
「お前だったらそれを言う事は出来るのか?」
晴希の顔が心なしか赤い。
「出来るよ。私、あなたになら話したいって思うの。自分の事。自分でも不思議なくらい、心穏やかに話せそうな気がするの」
過去の出来事を思い返すという事。それは風花だって苦しい。しかし今はなぜか自分の事を遠くから眺める事が出来るようになっていた。
なんだか可笑しくなる。その後大声で笑った。腹部は痛くなり息も苦しくなったけれど、心の中が一気に広くなったような気がしていた。
風花は笑顔で晴希を見つめる。
晴希も風花と目が合うと空を見る。
桜の花びらが風に揺られて踊っており、晴希の艶やかな黒の髪の毛もその風に揺られて踊っていた。
晴希が手を差し伸ばしてくる。おどおどとはしているけれどまっすぐ風花も手を伸ばした。その手が固く繋がる。
風花はその手の暖かさを感じ、また微笑んだ。
「とっても辛かったけど、でも、少しだけど後悔も出来るようになった。それはあなたがいたからだよ。私を受け入れてくれたから」
晴希は何も言わずに微笑んだまま頷く。その表情の中には強い決意があった。
もし限られた時間を過ごさなければいけない時がまたやってきたとしたら、どんなに醜くてもいいから最後まで生きる事に執着し続けようと。それがどんなに他人に迷惑を掛けることでも。元々人が生き続けるためには必ず何らかの犠牲は払ってきているのだから。
風花はそんな晴希の思いを感じ取って微笑む。
「私は、生まれ変わりたい。そして、今度は、ここに来たりしない。絶対」
そう言った風花の瞳には、光が宿っていた。晴希に会う前の虚ろな物は全く想像がつかない。
「だから、いつかまた、ここではない場所で会おうね。そうしたら、またこの桜の木に来よう?」
「あぁ」
晴希は繋いでいる手に力を込めて頷く。
風花は可能であれば晴希と一緒に明るい世界を生きていきたいと強く思った。
再びまたここの世界へと誘われる心の弱さに囚われてしまうかも知れない。しかし2人でだったら、そこから抜け出す事が出来るだろうから。
ここの世界へ来た時に提示された答えが見つかったのかは今でも分からない。しかし身体は次第に明るく、軽くなって行く。
もう前までいた世界へ戻る事は出来ないし、その事ばかりに悲観的になっていたら前へ進む事は出来ないとわかった。
この桜を堪能したら、あちこちを飛び回ってみよう。そう考えていた。
桜の花びらが風によってひらひらと舞い、2人の進む道を示してくれていた。
私の意図を汲み取った者よ
お前に新たな道を与えよう
輝く世界と生命の暖かさと
想いを告げる声を与えよう
遂げる事を誓った者だけに
全てを感じる力を与えよう